ごく限られた人にしか開かれない、プロピアニストへの道

プロピアニストとして「生計を立てる」ということ。それは天才たちの争いの中で勝ち抜いた、ほんの一握りの人にしか開かれていない道。15歳からピアノを始め、難病・ジニストア(※)に侵されながらも「世界的ピアニスト」として、自らの道を切り開いた西川悟平さん。

Precious.jpでは「今までの人生」「これからの夢」について、お話をうかがう機会に恵まれました。ピアノとの出会いからプロを目指す道程、難病を乗り越えた現在について、ロングインタビューをお届けします。

※…ジストニアとは、中枢神経系の障害による運動障害の総称のこと
ピアニスト西川悟平さん
ピアニスト西川悟平(にしかわ ごへい)さん

不純な動機で始まった、ピアノとの運命的な出会い

Precious.jp編集部(以下同)――西川さんがピアノを始めたきっかけを教えてください。

15歳、中学3年生のときブラスバンド部で活動していて「チューバ」という楽器を担当していたのですが、そのチューバで音楽大学へ行きたい、と考えていました。

音大の入試にはピアノが必須だと知り、当時のブラスバンド部の顧問の先生に「音大に入りたいので、ピアノを教えてください」とお願いしました。本当は先生がかわいくて、もっと近づきたいという、不純な動機だったのですが…。けれど、ピアノを習い始めたその日に「ピアノ科に行く」と決めました。そのくらい、ピアノに魅了されたんです。

――15歳からピアノを始めて「音大ピアノ科に入る」というのは、とても大変なことだと思うのですが。

周りの皆から「絶対不可能」と言われていました。幼少の頃から英才教育を受けている人たちでも、受かるのが難しいと言われていますから。でも、受かった後のことを想像して、毎日練習していたんです。頭の中で、楽しくピアノを弾く音大生になった自分の姿を想像して。そうしたら、受かることができました。

――毎日、どのくらい練習していたのでしょうか?

日によって違いましたが、自分で「1日15分、必ずピアノを練習する」と決めて練習していましたね。みなさんもそうだと思うのですが、勉強も、椅子に座るまでが大変。でも、一度座ってしまえば、練習できる。毎日7~10時間くらい、練習していましたね。

それと同時に、毎日レコードを聴いていたんです、ショパンの『ノクターン.Op9-2』『英雄ポロネーズ』とか。継続するために15分の練習、自分を奮い立たせるために、レコードを聴く。15歳から受験まで毎日、それを繰り返したおかげで、現役で大阪音楽短期大学に合格することができました。

――もともとは、4年制に編入するつもりで、短期大学部に入学したとお聞きしましたが、編入はされなかったのですか?

卒業してから編入試験を受けたのですが、2年連続で落ちてしまって。編入試験を受けている間は、ピアノを教えたり、ほかのアルバイトを掛け持ちしながら、イギリスをバックパックで回ったり、台湾でホームステイして中国語を学んだりしていました。でも、そんな安定しない生活で家族を心配させていたこともあり、就職することにしました。

就職したのは、大阪の高島屋の中にある和菓子屋さんです。もともと人がとても好きで。恥ずかしがり屋で赤面症だったのですが、人と話したくて、接客業を選びました。和菓子が好きだったことも、和菓子屋さんに就職した理由です。

――ピアノ科に入ってからは、何を目指していましたか?

プロのピアニストになろう、と思ったことはなかったですね。というか、15歳でピアノを始めた自分がピアニストになんてなれない、と思っていました。だから、そのときはただ「かっこよくピアノが弾きたい」と頑張っていました。ピアノの先生になれるといいな、とも考えていました。

実は、小学生のときの夢は「国際的映画スターになる」ことだったんです。小さいころから映画が好きで、そろばん検定6級に受かったら、ビデオデッキを買ってもらう約束を親としたんです。頑張って受かって、ビデオデッキを買ってもらい、毎日、好きな映画を観ていました。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『インディー・ジョーンズ』、キョンシーの映画など、何百回も観ていましたね。

その数年後、ピアノに出会ってしまって、ピアノ科を目指してピアノを弾いていたら、いつの間にか「ピアニスト」と呼ばれるようになっていました。

小学生のときの夢は世界的映画スターになること
小学5年生のときは国際的映画スターになることが夢だったという西川さん。「でも、小学生の時の夢も叶ったんです。スウェーデンでこれから作られる映画の主人公として、僕の人生が映画化されることが決まりました。ある意味、国際的映画スターになることができるかもしれなくて、とても光栄に思います」

人生が大きく動き出した、ニューヨークへの道

――和菓子店の正社員として働いたのちに、N.Y.へ移住されたと伺っています。それは何故?

その当時、僕は和菓子屋の店員として働きながらも、なぜかいつもピアノを演奏する依頼を絶えずいただいていて、大小関わらず、演奏活動をしていました。「もっとうまい人は沢山いるけど。悟平くんが弾いてくれると、なんだか盛り上がるんだよね」って。

ある日、ピアノの調律師さんから「N.Y.のジュリアード音楽院を出た、有名なデュオピアニストが大阪でコンサートするから、その前座で弾いてみない?」とお誘いをいただきました。

その前座の話をいただいたとき、最初は断ったんです。ちょうど和菓子屋が年末年始の繁忙期で「時間がないから、無理」と。「時間じゃなくて、自信がないんでしょ?」って言われて「じゃあ、弾くよ!」。売り言葉に買い言葉で、弾くことになりました。

当日はショパンの『バラードOp.23-1』を演奏しました。緊張しすぎて手足が震えて、途中で5回くらい止まりかけましたが、どうにか弾き終えることができました。

そして、そのときのコンサートに出ていたN.Y.のピアニスト、のちに恩師となるデイヴィッド・ブラッドショー先生とコズモ・ブオーノ先生から「N.Y.に来て、ピアノをやらないか?」と声をかけていただいたんです。

――その後、すぐにN.Y.へ?

いえ、実は3か月、何も連絡せずにいました。憧れのN.Y.、スカウトされたことは光栄なのですが、悩んでしまって。日本で正社員の職があるのに…って。でもその当時、仲良くしていたアメリカ人やオーストラリア人の友達に「なんで行かないの?」「行ってみてダメだったら、帰ってくればいいんじゃない?」と背中を押されて、やっとコンサートから数か月後に、N.Y.に旅立ったんです。

NYのビル群
1999年にN.Y.へ、現在もN.Y.で生活

1999年、N.Y.での生活スタートと華々しいピアニストデビュー

――N.Y.での生活は、どのように始まりましたか?

グランドピアノがある、大きな1軒家を用意していただきました。そこからブラッドショー先生のご自宅に毎日通い、レッスンを受け、帰宅したらまた練習する、という生活でした。

その時は、技巧的な曲が得意で指がよく動いたんですが、ブラッドショー先生から「そうやって上手に派手に演奏できる人は沢山いる。そうではなく、1本のシンプルなものを、いかに歌わせて弾けるか」ということを叩き込まれたんです。毎日毎日、練習漬けでしたね。

そんな日々を送っていたら、渡米2か月後にして、リンカーンセンターのアリスタリーホールの舞台に、ピアニストとして立っていました。

――そのコンサートでは、歌わせるように弾くことができたのでしょうか?

いえ、できなかったですね。技術で弾いていました。それでも先生から「N.Y.でもっと勉強しないか」と言っていただき、初めは滞在3か月のつもりが結局もう20年、住んでいます。

難病ジストニアの発症から、復活までの果てしない道のり

――病気になったのはいつですか?

N.Y.に行って2年くらいしたときから、手に違和感を覚えていました。でもそのときは病気だとわからなくて、日常生活には問題がないのに、なぜかピアノの前に座ると、指がギュっと曲がってしまうんです。だから、コンサートなども変わらず、しばらくやっていました。ぐちゃぐちゃになりながらも弾き続けていました。水泳、マッサージ、針治療、最後には除霊までしてもらったけれど、良くなりませんでした。

さらに2年後くらいに難病のジストニアだとわかり、「もう、今までのようにピアノを弾くことは絶対に無理です」と医師から宣告されました。

――指が動かなくなってからは、どのような暮らしを?

生活のために、清掃員、ホテルマン、いろいろとやっていました。その間、鬱状態になって自殺を考えたこともありました。一番つらかったのは、ピアノが弾けないことよりも「自分のアイデンティティがなくなり、生きている意味がわからなくなったこと」でした。

15歳から3万時間もの時間をかけて練習してきたピアノが、弾けなくなった。自分は何者なのか。今までり築き上げてきたものが、すべてなくなってしまうのではないか…という恐怖。死も怖くない、というところまで追い込まれていました。

――恩師に病気のことを告白したのは、いつですか?

ジストニアと診断を下される前くらいですね。僕のピアノを聴いて異変に気がついた恩師が「どうしたの? 何かあったの?」と尋ねてきたんです。でもそのときは、正直に言えなかった。見放されるのが怖かったから。

しばらくして、思い切って病気のことを話したら「指は何本動くの?」と聞かれて。「右手は3本、左手は2本」と答えたら「よかったね、そしたら、右で和音、左でベース弾けるね、1本でも動くならピアノを弾き続けなさい、1週間に30分でも1時間でもいいから、音楽に集中する時間をつくりなさい」と言われ、それから週に1度は恩師と一緒に時間を過ごして、手が動くときはピアノに触れ、手が動かないときはコンサートのビデオなどを観ていました。病気になったあとも、恩師のブラッドショー先生に支えてもらったんです。

その後、ブラッドショー先生は病気でお亡くなりになり、僕は先生の「最後の弟子」になりました。

先生と時間を過ごすと同時に、自分でもひたすらリハビリをしていました。ピアニストは普通、反復練習をするのですが、指が動かないので、普通の50分の1くらいのスピードで、一音一音を弾くリハビリの繰り返し。

例えば3分くらいの曲なら、2~3時間くらいかけて弾くんです。病気になってから数年かけて、7本の指が使えるようになって、ようやく1曲弾くことができるようになりました。それが今でもよく弾く、プーランク『即興曲第15番ハ短調』です。

恩師ブラッドショー先生と西川さんが微笑んでいる様子
故ブラッドショー先生(下)と西川さん

病気後から変わったピアノの音色

――2008年に、ピアニストとして本格的に大舞台に本格復帰したのですね。

7本指で演奏できるようになり、2年ほど経ち、さらに2曲ほど弾けるようになった頃、イタリアの音楽祭にお声がけいただいて、ショパン『ノクターンOp.48-1』を弾きました。10本の指がまだ動いていたころから夢見ていた、イタリアの大聖堂での演奏でした。

演奏後に「ブラボー」という歓声と、拍手が鳴りやまなかったのを覚えています。その後、東京、大阪、N.Y.でも演奏に本格復帰しました。

――病気になってから、音楽が変わりましか?

病気になってからは、格好良く派手にではなく、「いかに美しく」その曲を弾くか、ということにこだわって弾くようになりました。全部の指が使えないからこそ、音の1音1音にどれだけ『魂のこもった音色をつくれるか』を、考えるようになりましたね。

指が動かない苦労をさせてもらったおかげで、音楽に深みが出るようになったのではないかと思います。経験したことすべてが、音になっていると思います。N.Y.へ行き、異文化に触れ、ジストニアという病気になり、鬱になり、恩師を亡くし、その後両親を亡くし、そのときそのとき、もうダメだな…と思った悲しい経験のすべてが、今の音になっています。

左手の中指、薬指、小指はまだ動きません
7本指だからこそ、一音一音に魂をこめて弾いているという西川さん

映画のテーマ曲となった楽曲『ウィンター』

――2018年公開の『栞』という映画のテーマ曲を演奏された、とお伺いしましたが…。

そうなんです。ご縁があって、映画のテーマ曲に選んでいただきました。僕にとってこのテーマ曲、『ウィンター』という曲は特別なんです。

2016年ころ、ハーモニー・フォー・ピース財団というところで平和大使として活動していたとき、ある男の子のご両親から連絡をいただきました。

「日本が大好きだった息子が、亡くなる前につくった曲を、日本人のあなたに演奏してもらいたい」と。

リアム・ピッカーくん、鬱病やいじめなどが原因で、18歳で自殺しました。リアムくんのつくった曲を弾いて、曲の解釈がどうしても難しいところがあったので、ミーズリー州セントルイスにあるリアムくんの自宅を訪ね、リアム君が自殺したその部屋で、一晩過ごさせてもらいました。

それでようやく理解ができたと感じたこの曲を、カーネギー大ホールに連れて行きました。それまで、カーネギーの小ホールでは20回ほど演奏の経験がありましたが、大ホールでは、まだ弾いたことがなかったんです。リアムくんの夢と同時に、僕の夢も叶えることができました。

今は彼のつくったこの楽曲『ウィンター』を、彼の魂と共に世界中で演奏しています。彼の想いが世界中に届くように、これからも弾き続けていこうと思っています。

レアムくんの写真と共に演奏している様子
西川さんはリアムくんの写真を持って、演奏活動を続けている

病気を乗り越えて「今」思うこと

――西川さんが大切に思っていることを、教えてください。

大切にしていることは「言霊」です。

指が動かなくなってしばらくの間、「なんで動かないんだよ」と文句を言っている時期は、指はまったく動いてくれませんでした。でも、「5本も弾ける指がある」ということに感謝できるようになり、指に向かって「ありがとう、ありがとう」って言っていたら、指が少しずつ良くなって、今では7本の指で演奏ができるようにまでなりました。

今でも痙攣が止まらないときには、指をさすりながら「ごめん、ごめん、ありがとう」って言っています。そうすると、不思議と痙攣が収まるんです。

言葉にすればすべてがうまくいくわけではないのですが、「大変だ、大変だ、しんどい、しんどい」と言っていても、何も変わらない。その大変なことに感謝の気持ちを持って「ありがとう」と言葉にすることで、劇的に奇跡が起こる。失敗してもネガティブにならず、「失敗から学んだこと」に感謝することで、生まれるもののほうが多いんです。

座右の銘、というより、自分でつくった言葉なのですが、

「最悪の出来事も、ちょっとした考え方と行動の違いで、最高の出来事に変わることもある」
(The worst case scenario can turn out be the best case scenario.)

という言葉を大切にして、日々を過ごしています。

――試練を乗り越え「今」、西川さんにとってピアノはどんな存在ですか?

自己表現のツール、自己表現そのものです。表現することは生きることです。一度失って、また弾けるようになった。病気は神様からのギフトだと思っています。だからそのギフトを使って生きています。

――今から音楽を始めようと思っているプレシャス読者に、何かメッセージをいただけますか?

とにかく、完璧に弾こうとか、上手く弾こうとかいうことより、楽しんで演奏してほしいです。メロディーがきれいだな、とか、美しいものにひとつひとつ感動しながら弾いてもらいたいですね。完成させることになんて意識なんていりません。楽しんで弾いていたら、それが音に伝わるから。

座って遠くを見る西川悟平さん
今も夢に向かって走り続けています

「今」を超えて、ピアニストとしてこれから目指すこと

――これからの夢を教えていただけますか?

僕は早くに両親を亡くしてしまいました。とても仲の良い両親で、生まれ変わっても一緒になりたいね、とよく話していました。温かい家庭に生まれたことに、感謝しています。だから直近の夢は、自分も温かい家庭をつくることですね。

それと現在、僕は「ロケットプロジェクト(※)」というプロジェクトに参加しています。「次世代に何が残せるか」。人生も折り返し地点を過ぎ、自分の幸せだけでなく、自分が得たものをできる限り残していきたい。

※…異才発掘プロジェクト「ROCKET」のこと、日本財団と東京大学先端科学技術センターがサポートしている、日本の将来をリードしイノベーションをもたらす人材を養成するプロジェクト

夢のない人に、夢をつくれとは言いません。好きなこと、もしくは、なんでもいいからまず動いてみる。1回やってみて、それが好きなら、それをやっていけばいい。

10あるものを10全部、そつなくできるよりも、9できなくても、1つだけでも得意なものを見つけて、それを磨けばいいと思うんです。

将来的には、貧しい国の子供たち、才能のある貧しい子供たちを助けられるような立場の人間となり、奨学金を出してあげられるような財団をつくりたいです。

そして、彼らの笑顔の思い出を持って死にたい。病気になったからこそ、いろいろなことや、周りの人々に感謝できるようになりました。音楽に自分の音を見つけることができました。夢は叶います。

GINZA7 Sudioでスタンウェイの前に座ってにこやかな西川悟平さん
GINZA7th Studioでコンサート開催しています

以上、西川悟平さんのインタビューをお届けしました。

インタビューの間、西川さんから何度も出る「ありがとう」の言葉。今までの事すべてに感謝し、病気をギフト、と言える心境までたどりつくには、想像できないご苦労があったことと思います。

インタビューの前後に、西川さんのコンサートで演奏を拝聴しました。経験のすべてを「音」で表現している西川さんの演奏には、聴くすべての人の魂を揺さぶる旋律がありました。

2019年6月中旬まで、GINZA7th Studioにて西川さんのコンサートが行われています。ご興味のある方は是非、足を運ばれてみてはいかがでしょうか?

コンサート問い合わせ先

この記事の執筆者
TEXT :
岡山由紀子さん エディター・ライター
BY :
『7本指のピアニスト』西川悟平著 朝日新聞出版
新卒で外資系エアラインに入社、CAとして約10年間乗務。メルボルン、香港、N.Yなどで海外生活を送り、帰国後に某雑誌編集部で編集者として勤務。2016年からフリーのエディター兼ライターとして活動を始め、現在は、新聞、雑誌で執筆。Precious.jpでは、主にインタビュー記事を担当。
公式サイト:OKAYAMAYUKIKO.COM
EDIT&WRITING :
岡山由紀子