さて、フレデリック・マルという名を聞いたこともない、という方のために、彼の功績を簡単にご紹介します。1962年パリ生まれの彼は香水業界のゲームチェンジャーです。2000年、「香りの出版社」という斬新なコンセプトを立ち上げ、調香師を「作家」として扱い、自らは「編集者」として調香師たちから能力を引き出し、妥協なき作品群を創出させました。生まれた作品には「フレデリック・マル」というブランド名のもと、コンセプトを表すタイトルとともに調香師の名も冠されます。贅を極めた「芸術」作品の数々は、香水業界の景色を塗り替えました。

写真左/ドミニク・ロピオン作「ポートレート オブ ア レディ」はバラ400本分のエッセンスが使われているそうです。一度すれ違ったら忘れがたい香り。右上/作家=調香師が12人。彼らひとりひとりの力を最大限に引き出す編集者にして「出版社」のCEOが、マル。右下/パレスホテル東京でおこなわれたプレスランチにて。「日本人は完成度の高いものを好みます。私たちの香水の完成度の高さを理解し、受け容れてくれると信じています。池に投げた小石がさざ波を立てるように、私たちの香水がゆっくり広がっていけばいい」と語るマル。
写真左/ドミニク・ロピオン作「ポートレート オブ ア レディ」はバラ400本分のエッセンスが使われているそうです。一度すれ違ったら忘れがたい香り。右上/作家=調香師が12人。彼らひとりひとりの力を最大限に引き出す編集者にして「出版社」のCEOが、マル。右下/パレスホテル東京でおこなわれたプレスランチにて。「日本人は完成度の高いものを好みます。私たちの香水の完成度の高さを理解し、受け容れてくれると信じています。池に投げた小石がさざ波を立てるように、私たちの香水がゆっくり広がっていけばいい」と語るマル。

 マルが起こしたイノベーションその1は、香水の本質を蘇らせたこと。1990年代、化粧品会社は、パッケージデザインやモデルを使ったキャンペーンに競うように投資しましたが、肝心の中身はといえば、どの製品も大差ありませんでした。マルはそうした虚飾をすべて排し、香水の中身そのものに焦点を当てました。斬新ながら本質を極めた作品は、「本物」を求める愛好者から絶大な支持を得ました。

 イノベーションその2は、それまで日陰にいた調香師たちをスターにしたこと。彼らを芸術家として敬い、才能をフルに発揮する自由と責任を与えました。マルの言葉を借りれば「F1ドライバーに、タクシー運転手をさせてはいけない」。F1ドライバーがタクシー運転手をするというミハエル・シューマッハのような有名エピソードもありますが、この文脈においてマルは、才能ある調香師を多くの制約で縛るようなことをしてはいけない、という意味で話しています。

 さて、そんなフレデリック・マルによれば、香水は人と人との関係を近づけるための磁石。光や温度、湿度、場所、気分によって香水を変えることはもちろん大切ですが、香水をセンシュアルな欲望を育てる誘惑装置ととらえるならば、あなたを物語るようなシグニチャー・フレグランスをもつのもよいものです。象徴となる香水は、あなたの過去と現在、そして迎えたい未来の理想から導かれます。

 パリ本店では、マルが直々に顧客に向き合い、シグニチャー・フレグランスを選ぶためのアドバイスをしています。面白いことに、顧客の方々は、自分に最適の香水を選んでもらいたいと力が入ると、過去や現在の自分の秘密をすべてマルに話してしまうのだそうです。マルがそれを強いているのではなく、顧客自らが、勝手にマルに打ち明けてしまうのですね。あたかも神父さまに秘密を「告解」するように。その結果、彼はパリ界隈の秘められた人間関係をもっともよく知る人となるわけです。もちろん神父さまと同様、決して口外はしませんが。

 人間を知り尽くした詩的な語り口で相手を自分の世界に引き込むことのできる、マルの紳士力の賜物でもありましょう。叔父は映画監督のルイ・マル、祖父はパルファン・クリスチャン・ディオールの創業者セルジュ・エトフレ=ルイシュ、母もその部門で長らく指揮をとっていたというサラブレッドです。芸術家一族に生まれた実業家のオリジナルなやり方が、香水ビジネスの新しい地平を切り開いたばかりか、顧客の香水に対する態度をも変えたのです。顧客は香水を通して「自分は何者で、これからどうありたいのか?」という本質的な問いに向き合う楽しみを覚えたのです。

 さて、そんな芸術的なビジネスマンであるフレデリック・マルは、ウェルドレッサーでもあります。スーツはすべて、父の代からお世話になっているサヴィルロウのアンダーソン&シェパードでのお仕立てで、なんとサイズが同じなのでお父様のスーツを着ることもあるとか。好きなのはネイビーのタイで、その理由は、「ファシリテ!(簡単だから)」。フランスには、マクロン首相もそうですが、情報を「読まれる」危険の少ないネイビーのタイを好む方が多いですね。

写真左/香りそのものを表すことばない。原料名を並べても香水を表現したことにはならない。嗅覚以外の五感の形容詞を駆使して香りを説明しなければならないというのが香水文化の難しさと面白さでもある。写真右/2018年11月におこなわれた日本再上陸を記念する発表会での壇上のマル。ポップな黄色いカフリンクスがのぞいていた。表からは見えないけれどこの角度からようやくわかるというのがポイント? 時計はローレックスにミリタリーのバンド。ミリタリーのバンドを時計につけるのは、NATOのパイロット流。こうすると絶対にはずれないとのこと。
写真左/香りそのものを表すことばない。原料名を並べても香水を表現したことにはならない。嗅覚以外の五感の形容詞を駆使して香りを説明しなければならないというのが香水文化の難しさと面白さでもある。写真右/2018年11月におこなわれた日本再上陸を記念する発表会での壇上のマル。ポップな黄色いカフリンクスがのぞいていた。表からは見えないけれどこの角度からようやくわかるというのがポイント? 時計はローレックスにミリタリーのバンド。ミリタリーのバンドを時計につけるのは、NATOのパイロット流。こうすると絶対にはずれないとのこと。

 マル自身が愛用する香水はといえば、夜は「ムッシュー」、天気がいいときは「ゼラニウム」、そしていつでもどこでも「ヴェチベル エクストラオーディネル」。後者のヴェチベル(日本語でベチバー)は飛行機のなかでも使える香水で、マルの表現を借りれば「ネイビーとベチバーは万能」。

 実はマルには「香りが色として見える」能力があるのですが、そういう視点を想像して眺めると、なるほど、ベチバーの香りから受ける感覚と、ネイビーという色から受ける印象には、相通じるものがあります。凛と涼やかで、明瞭で敵を作らないのにどこか神秘的。ネイビー&ベチバーというのは、普遍にして万能、ゆえに最強の紳士的組み合わせともなるのですね。

「派手ではない人のほうが、個性ある。リミットがない」という人間観をもつマル自身も、ことさら人目につく装いはしていないのですが、上記の話を伺ったプレスランチの前日におこなわれた発表会において、最前列でマルの話を聞いていた私は確かに確認しました。アンダーソン&シェパードのスーツの袖口に隠れたポップな黄色いカフリンクスを。ふふふ、この意外な遊びに気がついたのは、おそらく私ただ一人。(そう思って喜んだ人がおそらく大勢いたに違いない。笑)

 相手に対し、「これに気づいたのは私だけ」と錯覚を与え、相手との距離をぐっと縮めてしまうような高度で繊細な技。フレデリック・マルの香水の底力に通じるものがあります。

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この記事の執筆者
日本経済新聞、読売新聞ほか多媒体で連載記事を執筆。著書『紳士の名品50』(小学館)、『ダンディズムの系譜 男が憧れた男たち』(新潮選書)ほか多数。『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』(吉川弘文館)6月26日発売。
公式サイト:中野香織オフィシャルサイト
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