日本で開催中のラグビーワールドカップ。過去の8回は、ラグビー強豪国での開催だった。それもそのはず、ラグビーの世界的団体の理事会で、強豪国はひとつの国で投票権を2票持ち、それ以外は1票しか持たされていなかったからだ。

当然、自国で開催したい国は、仲の良い国に根回しをし、投票してもらって、票を獲得していた。それは、ラグビー発祥の英国の力関係だったり、南半球のリーグの仲間であったり、ラテン系の国の仲間であったり……。残念ながら日本は、孤立したままの招致の闘いに臨まねばならなかった。

夢はやがて実現する。あきらめないで挑戦しつづければ!

日本代表vs.サモア戦での国歌斉唱シーン
2019年10月5日に開催された日本代表vs.サモア戦での国歌斉唱シーン。写真/藤岡雅樹

日本は2011年開催に動き出すが、惜しくも落選。しかし、これであきらめはしなかった。招致に動いた人は、その人生の多くを、ワールドカップ日本開催のために時間を費やしてきたことになる。ある意味、ラグビーの試合以上にタフで困難な闘いに挑み、闘い抜いた男たちがいることを忘れてはいけない。日本で開催されていることは、夢の実現であり、奇跡の降臨でもあったのだ。

約20年におよぶ種まきと努力が大きな花を咲かせた!

なぜ日本で開催に至ったのか。それにはどんな意味があるのか。そこを知ると、この大会の持つ意味の重さがわかる。そして、そのフィールドで日本代表が活躍している意味が理解できる。

そして、その舞台を築きあげてきた人たちの知られざる苦労や努力を知るにつれ、流れ出る涙の量が違ってくるはずだ。舞台は2000年から始まる。時計は19年前に逆回しとなる。ラグビーワールドカップ日本開催に至る道。そこにはいくつかの夢と奇跡、そして関係者の血のにじむ努力があった。

国内でも、冷たい反応だった16年前の出来事

森喜朗元会長(奥左)と徳増招致事務局長(奥右)
森喜朗元会長(奥左)と徳増招致事務局長(奥右)。日本開催誘致への行脚は何日も続いた。

招致に関する物語は、外務省に勤めていた奥克彦さんの話からスタートする。

奥克彦さんは外務省に入所後に英国オックスフォード大学に留学。ラグビー部に入部し、日本人としてはじめて先発メンバーとして試合に出場している。その奥克彦さんの夢が「日本でワールドカップを開催したい」というものだった。2000年に国連政策課長に就任し、当時内閣総理大臣だった森喜朗さんと、その夢を語り合う。

両名とも早稲田ラグビー部のOBという仲である。しかし、2003年に悲劇が起こる。夢を胸に、奥克彦さんはイラクで銃弾に倒れることになってしまうのだ。森首相は、その時から、夢のパスを受け継ぐことになる。

その同じ年のことだった、日本ラグビー協会の真下昇専務理事(当時)が、とあるフォーラムで「日本でワールドカップを開催したい」という主旨の発言をしたことから、ものごとは急に動き出す。当時、日本ラグビー協会の国際部長であり、英国ウェールズ滞在の経験もあり、語学力に長けた徳増浩司さんは、その時からワールドカップ招致への重責を担っていく人生を歩み出すことになる。「2011年の大会を日本で!」という夢に向けて。

しかし、世の中の風潮は“日本でラグビーワールドカップなんて開催できるわけがない”というものだった。当然である。強豪国と試合をすれば大差で負ける。日本代表より大学生の試合の方が観客数も多い。そんな時代だった。それでも徳増さんは、“もしかしたら、夢が実現できるかもしれない”と、この大事業に賭けてみようと思い始めた。当時を振り返って、徳増さんはこう話してくれた。

「海外の強豪国はともかく、国内のラグビー関係者たちでさえ“日本で本当にやれるのか?”とか“観客は入るのか”という冷たい風潮で、つらく孤独な作業だった」

それでもIRB(ラグビーを統括する団体。現WR=ワールド・ラグビー)のマイク・シラーCEOに開催を希望する連絡を入れる。その反応は予想に反して、無理ではないかも知れないと思わせるものだった。

しかし。そんなに簡単に運ぶほど甘いものではない。それからは幾多の困難が待ち受けることになる。

「日本には世界にラグビーの友達がいない」

開催の決定には、理事国の投票が必要である。投票は、伝統国は2票、それ以外は1票という格差があった。これでは普通に投票となれば結果は火を見るより明らかだ。

それからだ。森喜朗ラグビー協会会長(2005年に会長就任)、真下副会長、徳増さん(2004年にワールドカップ招致事務局長に就任)による海外行脚、つまり各国のラグビー協会周りがはじまった。各協会を周って、プレゼンをし、アピールをする毎日。各国の理事は、会えば社交辞令で良い顔はする。しかし本音は別にあることも把握できる。

そんな中でつくづく思い知らされたのが、日本には世界にラグビーの友達がいない、ということだった。つまり。英国は英国連邦としての関係のある国が多く、一方、南アフリカやニュージーランド、オーストラリアは南半球SANZAAR(サンザー)というリーグの関係があり、イタリア、フランス、アルゼンチンらはラテン圏の友人関係にある。

では、日本は? アジアの雄ではあっても、ラグビー伝統国との太い関係がまったくない。靴の底を減らして各国を周っても、本当に開催ができるのか。それは投票の結果をみるまでわからない状況にあった。

2011年のラグビーW杯の開催国は、ニュージーランドと日本の一騎打ちに

そして、2005年11月17日。開催国決定の日。最後はニュージーランドと日本の一騎打ちになった。それでも大方の予想は「日本開催」である。プレスのカメラマンも日本側に位置していた。ところが。開催国はニュージーランドに。現場にいた関係者の落胆は言葉にできないものだった。数年かけて、休みもなく働いてきたことは何だったんだろう。もうすべてを失った気分だった。

そのころ、日本のラグビー協会では、職員がシャンパンを用意して吉報を待っていた。しかし、残念な結果に皆肩を落とすことになった。“日本では事務局員がみんな泣いた”。それを聞いた森会長は、そこではじめて涙を流した。徳増さんが森会長の涙を見たのは、後にも先にもその一度だったという。

森喜朗ラグビー協会会長、世界のラグビー界のトップに直談判

その次の日だった。森会長は、どうしてもと翌日シド・ミラー会長に会いに行った。どうしても気持ちが収まらない。直談判である。ミラー会長は、単なるご挨拶程度の来訪かと考えていたらしい。しかし、そこで出たのはこんな話だった。

「国連でさえ、大国や小国に関係なく1票を持っている。フェアを大事にするラグビーの世界でこんなにアンフェアなことはない。あなたたちは、いつまで仲間うちでパスを回しているんだ!」

ミラー会長の顔がみるみる赤く、感情的になっていったのが忘れられない、と通訳で同席した徳増さんは言う。あれだけやってだめなのだったら、もう日本でのワールドカップ開催は難しいかもしれない。徳増さんの心も折れかかっていた。いやほとんど折れていた。

しかし。この日までの招致活動は意味があったのである。翌月にパキスタンで行われたアジアラグビーの理事会で、招致失敗の報告をすると、ブルネイの理事からこんな発言が出る。

「ここでやめないでくれ。アジアのためにも、日本がリーダーになって、どうかもう一度挑戦してほしい。アジアみんなで応援するから」

徳増さんはその言葉に、日本開催の「使命感」のようなものを感じたという。これはもうやるしかないと。

流れは「アジアではじめての開催」へ!

ワールドカップ日本招致のための説明資料
休日返上、徹夜もいとわず。招致のための説明資料は、ワールドカップ日本開催の証人でもある。

それからさらに3年半が経ち、「2015年と2019年開催国を同時に決める」という妙案がマイク・シラーCEOによって出された。この提案が日本に有利に動いたと徳増さんは言う。そして、それはIOC(国際オリンピック委員会)へのアピールの意味もあった。

7人制をオリンピック競技にしたいとのラグビー協会側の意向に対して、オリンピック委員会は「ラグビーは世界に門戸を開いているのか?」という答えを返しており、先の大会であっても、もし日本での開催になれば、IOCへのひとつの答えにもなる。伝統国だけで開催していたワールドカップは、新しい挑戦をしなくてはいけないムードになっていた。

それから、またまた招致への闘いが始まった。立候補国はイタリア、イングランド、南アフリカ、日本の4か国である。2011年の招致に向けた資料の表紙には「A Fresh Horizon」と書かれている。新しい地平へーー。次の招致挑戦の資料表紙には「A TENDER FOR ASIA」とある(テンダーとは“入札書”を意味する)。アジアではじめての開催へ!

2015年の大会はイングランドに決定。2019年の大会は南アフリカ?イタリア?日本?

2009年7月28日。15年イングランド、19年日本という「推薦案」に対して、ダブリンのIRB理事会で投票が行われた。19年大会の投票は、フタを開けてみれば賛成16に対して、反対10。南アフリカやイタリアとの激戦を制した結果だった。南アフリカは国家をあげて開催を取りに来ており、万が一大会の赤字が出ても、国が保障すると主張したという。むろん日本はそんなことを約束できるはずもなく、この闘いは本当に“純粋に、ラグビー発展のためアジアで!”という信念によるものだった。

徳増さんはこの日を“招致記念日”と笑っていたが、当日は「バンザイ!という感じではなく、日本に決まって安堵したことを覚えています」とのことだった。2003年に招致を始めてから、6年がかりの決定だった。

開催決定の翌朝、安堵と疲労の中で、真下副会長と徳増さんが朝ご飯を食べていると、ニュージーランドの理事が来て、「本当は南アフリカに入れることになっていたが、日本に票を入れた」と伝えてくれたという。それはラグビーの発展のためを考えて、悩み抜いてとった行動だった。その票がなかったら、結果はどうなっていたかわからない。その理事は、これからケープタウンに謝罪に行くと語ったのだった。

2015ワールドカップ初戦、南アフリカ戦の「番狂わせ」が救った!

しかし、この話には続きがある。南アフリカは決定を聞いても、まだ招致をあきらめなかった。2015年、国立競技場改修計画延期を理由に、日本開催の白紙撤回の動きを起こしていたのだった。そのムードを一蹴したのが、あの2015ワールドカップ初戦の日本対南アフリカ戦である。史上に残る、番狂わせ。南アフリカにしてみれば、ここで、日本をこてんぱんにやっつけて、さらに自国開催を主張するシナリオだっただろう。

しかし。結果は、南アフリカからの騒音を一切なくしたものだった。2015年のイングランド大会は初戦から熱狂に包まれ、大会自体が面白いものになった。誰もが日本の試合を心待ちにした。そして気が早いラグビーファンは、日本開催に希望を託してくれていた。こんな素晴らしい試合ができる日本なら、これはきっと素晴らしい大会にしてくれるだろう。そしてきっとまた感動できる何かが起こるに違いないと。

ラグビーW杯招致のために働き、力を尽くしたたくさんのヒーローたち

取材の最後に「2019年の日本開催が決まっていたからこそ、みんなががんばって2015年の南アフリカ戦の勝利があったのだと思うし、あの勝利があったからこそ、日本代表がさらに強くなった」。徳増さんは、そう言いながら、日本で行われているこの大会が、予想以上の盛り上がりとたくさんの観客動員と、世界中の人々からの称賛を得ていることに、あらためて16年間の夢の道のりをかみしめているようだった。

奥克彦外交官の夢、森元首相の熱、徳増さんの行動。まだまだ招致のために働き、力を尽くしたたくさんのヒーローたちがいる。

招致に至る道のりは、ここでは書ききれてはいない。しかし、こんな物語があったことを胸にワールドカップを見ていただきたい。そこにはたくさんの夢と希望と覚悟が詰まっている。

そして、この日本大会で日本代表が8強に入るということは、伝統国優位に動いてきたラグビーの世界の中でとてつもなく大きな意味を持つ。それは、1票しか投票権を持たない国や、1票も持っていない国に対してどれだけ勇気を与えることになるだろう。いや、どんな人にでも、ラグビーを観る人たちにとってどれだけのチカラを与えることになるだろう。

世界中の人の夢をのせて展開されている、ラグビーワールドカップ。闘いはいよいよ決勝トーナメントへと舞台がうつる。準決勝、決勝の舞台は、日本ではじめてラグビーが行われたという横浜だ。国を背負って闘う選手たちに、熱い声援と力の限りの拍手を送りたい。