それほど知られていないが、じつは、この人こそ変革の原動力となったといわれるシブイ人がいる。いわば、通の知るプロデューサー。たとえば音楽でいえば、「ウィー・アー・ザ・ワールド」を作ったクインシー・ジョーンズのような人。

 この伝記小説『ピースヒル~天狗と呼ばれた男』の主人公・岡部平太(おかべへいた)は、日本スポーツ界において、まさにそういうタイプの人だろう。

自由と反骨の快男児〜岡部平太

第3回国体(福岡開催)でGHQから会場予定地を奪還し、平和台競技場を創設した岡部平太。1948年撮影
第3回国体(福岡開催)でGHQから会場予定地を奪還し、平和台競技場を創設した岡部平太。1948年撮影

 NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公として脚光をあびた日本人初のマラソン選手=金栗四三(かなくりしそう)の盟友であり、科学的トレーニングを導入し、コーチとして名選手を生みだした男。それが岡部平太である。

 岡部コーチは理論に裏付けられた練習に徹したそうだ。「フェアプレーで勝つ」を信条に、根性論や精神論に頼らないトレーニングを普及させたのだという。

 あらかじめそんなことを踏まえ、読みはじめた。

 それほどスポーツに興味がないし、上下2巻の大部な著作を読むのは疲れるだろうと思っていた。

 しかし、あに図らんや、じつに面白い。血湧き肉躍るストーリー展開は痛快無比。まるで読む劇画のようだ。こんなことがほんとにあったのかというくらい岡部の実人生はまさに波瀾万丈だった。

    *    *    *

 1891年(明治24年)、現在の福岡県糸島市に生まれた岡部は、幼い頃から、近所では有名な「悪僧(わるそう)坊主(悪ガキ)」でスポーツ万能。勝ち気で真っ直ぐな性格は、勝負にはこだわるが、争いのフェアなやり方や個人の自由や平等、自主性を大切にした。

 したがって、権力を笠にきる先生などには真っ向から反発。自由と反骨のこの精神が、岡部平太の一生を貫き、かれのダイナミックな力の源になる。

 柔道、剣道、相撲の達人として名を上げ、講道館柔道の創設者=嘉納治五郎(かのうじごろう)に師事して上京。東京高等師範学校(現在の筑波大学)を経て米国シカゴ大学に留学。

東京高師時代の岡部平太(中段の右から3番目)。1914年撮影。
アメフト姿の岡部平太。1917年、米国シカゴで。
アメフト姿の岡部平太。1917年、米国シカゴで。

 陸上競技、サッカー、野球、競泳、テニス、ラグビー、バスケットボール、ボクシング、スキー、スケートなどありとあらゆるスポーツで一流の成績を残し、コーチも歴任。日本に初めてアメリカンフットボールも紹介した。なかでも画期的だったのは、科学トレーニング理論を身につけ、それを日本に持ち帰ったことだ。要するに、運動神経も頭脳も、ともに天才的(=天狗)だったのである。

 帰国後、柔道とプロレスとの異種格闘技戦をめぐって、師弟関係にあった嘉納治五郎と対立。「柔道を世界に広めるための絶好の機会」とプロレスとの対決を受けようとする嘉納に対し、米国留学中にプロレスラーと戦った経験のある岡部は、「アマチュア精神を失ってしまう」と猛反対。師のもとを去り、それ以降、岡部は日本の体育会メジャーからはずされることになる。

 相手がいくら師匠でも、決して忖度せず、自分が納得しない限り立ち向かっていく反骨精神がここでもあらわれたのだ。

 その後、満州に渡った岡部は、本土と対抗する満州体育協会を創設。日本と中国、そして世界のスポーツ交流に尽力したが、世の中は戦争一色になっていく。

 米国留学を経験し、世界を俯瞰して見つめられる岡部はもともと戦争に反対だった。当時の首相・小磯国昭にも戦争終結を直訴したが、その甲斐なく、岡部の長男も特攻で戦死。失意のどん底で敗戦を迎えた。

 戦後、糸島に引き揚げた岡部は福岡市長の相談を受け、1948年(昭和23年)の福岡国体の誘致に成功。大会準備委員長を任され、陸軍の連隊跡地を会場にしようとしたが、GHQ(連合軍総司令部)が接収し、進駐軍の住宅建設を計画していた。そこでGHQ幹部に「もう戦争は終わった! ここをスポーツのピース・ヒル(平和の丘=平和台)にしたい!」と必死に訴え、成功。国体会場を「平和台競技場」と命名した。そのネーミングには、岡部自身の不戦の誓いと息子への鎮魂が込められていたという。

 その後、岡部は「日本人が世界で勝てる競技」としてマラソンに注目。金栗四三と協力して「オリンピックマラソンに優勝する会」を設立して選手を育成。1951年ボストンマラソンでは日本代表監督をつとめ、初優勝。現在につながる日本マラソン界の基礎をつくったのだった。

金栗四三(中央)と「オリンピックマラソンに優勝する会」を設立した岡部平太(左から3番目)。福岡市の大濠公園で1950年撮影。

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 岡部がいなければ平和台はなかったし、日本のマラソンやプロ野球の隆盛もなかったに違いない。

 岡部は偉大な人物だったが、なぜか日本のスポーツ界でけっして主流にはなれなかった。

 自らの理念に沿って生き、人としての道をはずさず、思うところを直言実行する。まさに、強くやさしく、爽やかな快男児。そんな男がどうして日本でメジャーになれなかったのか。

 じつは、そこを考えさせるのが、この小説のポイントではないか。

 ぼくには、この小説がスポーツ界のみならず、日本の組織そのものを描いているように思える。

 少年の頃から「弱きを助け、強きをくじく」武士道精神をもちあわせ、公=パブリックという概念をたいせつにした岡部は、米国留学でその普遍的精神にさらに磨きをかけた。

 ひるがえって、戦前から現代にも続く「場の空気をいやらしく読む」感情的でドメスティックな雰囲気……。

 それは、合理的でユニバーサルな岡部の思想とは相容れぬものだっただろう

 きっと岡部は、国内では「変わり者」として弾かれ、しかし、その効率的なコーチングの才能をいいように利用されたに違いない。ぼくにはそう思えて仕方がない。

 頭のいい岡部は「場の空気を読めなかった」のでは決してなく、「あえて空気を読まなかった」のだろう。

 そして、自らが日本社会とぶつかりながらも、少しずつ変革できればと身体を張って生きていったのだと思う。

 そんなこんなを思いながら、この本を読むと、日ごろ組織に疑問をもって生きる読者諸兄諸姉は、「明日もめげずに、岡部のようにがんばろう」とたくさんの勇気がもらえるだろう。

 余談だが、先日、牡蠣小屋の取材のため、たまたま初めて糸島を訪れた。

 小説のなかにも登場する優美な可也山(かやさん※糸島富士)に見守られ、穏やかな海辺を歩き、広い水平線を眺めていると、まさにこの糸島の風土が岡部平太という人間を育んだのだなと思えた。


Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(上)
【内容紹介】福岡県糸島郡に生まれた平太は、子どもの頃から規格外の身体能力の持ち主だった。柔道八段、剣道五段、相撲、野球、将棋、テニス…ずば抜けた才を発揮し、時代に翻弄されながらも、豪快に明朗快活に生きる姿に周りの人々は魅了されていく―。「天狗の平太」と呼ばれた破天荒な子ども時代、幼馴染との初恋、柔道、師・嘉納治五郎との出会い、仲間、結婚、渡米。スポーツ風雲児の熱く輝く青春時代を描いた岡部平太物語前編。
2019年1月8日出版 ¥1,320(税込)
Peace Hill 天狗と呼ばれた男 岡部平太物語(下)
【内容紹介】1917(大正6)年、渡米した平太はシカゴ大学で人生の師・スタッグ教授と出会う。スポーツ先進国アメリカの広いグラウンドや指導者たちに刺激を受け、貪欲に多くのスポーツ理論、技術を吸収して日本に持ち帰った。型破りだが、確実に成果を残す指導と、豪快で懐の深い平太の人間的魅力により指導者として認められるが―。石原莞爾、張学良ら歴史上の人物たちとの驚くべき交流。子どもたちの悲劇。コーチとして育成した多くの選手たち。時代に翻弄されながらも日本スポーツ界に多くの功績を残した岡部平太の激動の生涯を描いた大河小説完結編。
2019年11月20日出版 ¥1,320(税込)

 

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この記事の執筆者
1954年、大阪生まれ。京都大学教育学部卒業。サントリー宣伝部を経て作家として活躍。サントリー時代に携わったTV・CMでは、井上陽水の「角瓶」、ミッキー・ロークの「リザーブ」、和久井映見とショーケンの「うまいんだな。これがっ」の「モルツ」など心に残る作品を連発。著書に『漁師になろうよ』『リキュール&スピリッツ通の本』(小学館)、『バー堂島』(ハルキ文庫)などがある。
公式サイト:MONKEY HOUSE
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