創刊63周年を迎えるアメリカの男性誌『プレイボーイ』から女性のヌード写真が姿を消した。リニューアルした3月号のカバーは、SNSで世界的に人気のサラ・マックダニエルが水着でセルフィーをしている写真である…。

ヌードがない『プレイボーイ』なんて、と思う読者は多いと思う。『ヴォーグ』にとってのファッションと同じく、創刊以来『プレイボーイ』の一番の売りはヌードだったからだ。ヌード抜きの『プレイボーイ』。それは雑誌の創刊者にして編集長のヒュー・ヘフナーのタブーとの戦いの完全な終焉も意味している。

 

ヘフナーが『プレイボーイ』を創刊したのは、彼が27歳のときだ。1926年、シカゴに生まれたヘフナーは子供の頃から絵が得意。高校時代は校内新聞の編集長をつとめ、家では学校生活をネタにしたコミック・マガジンを全て自分で描いて発行するなど、その頃からジャーナリストとしての片鱗をみせていた。しかもIQは152と頭脳のほうもバツグン。第二次世界大戦の兵役から除隊したヘフナーは、シカゴ・アート・インスティチュートとイリノイ州立大学で学び、同大の大学院で性意識のリサーチにも参加。1949年に卒業後、得意分野のコピーライティングの仕事を『エスクァイア』誌のシカゴ支局で得て始めるが、数年後、支局のニューヨーク移転を機に退社。その理由は、むろん、自分自身の雑誌を創刊するためである。

当時発行部数も内容も男性誌では最高峰だった『エスクァイア』を辞めてまで、ヘフナーが自分の雑誌を作りたかった理由はなにか。それは、当時のアメリカの雑誌全てに蔓延していたキリスト教的モラルの強さ、説教くささにがまんがならなかったからである。男性も、自分の欲望に対して素直であるべきだ。戦争という最大の拘束から解放されたアメリカの若者が求めているものをヘフナーは身にしみて知っていた。

母や弟など45人からかきあつめた8千ドルを資金にヘフナーの新雑誌は創刊された。タイトルは『プレイボーイ』。仕事と家庭生活しかない男ではなく、遊びも満喫する男、そんなイメージを持つこのタイトルをヘフナーは気にいっていた。そして、創刊号を成功させる秘密兵器、それがヌードだった。

マリリン・モンローが数年前に撮影したカラーヌード写真を入手したヘフナーは、それを中綴じ雑誌の折込みに採用。それが話題を呼び、創刊号はとぶように売れ、約5万4千部を数週間で完売。8千ドルの資金ではおそらくそれ以上刷りようもなかっただろう。

創刊号の成功で自分の読みに自信を得たヘフナーは、時代はヌードを求めていると確信。「プレイメイト」というネーミングで毎号素人女性のヌード写真を掲載する。写真のコンセプトは〝ガール・ネクスト・ドア(隣の家のお嬢さん)〞。自宅の居間や、ベッドルーム、プールで寛ぐ若い女性の日常シーンをヌード化するスタイルは、男性読者を虜にした。

しかし、創刊当初の成功はやがて保守的な’50年代のアメリカ社会から猛反発をくらう。『プレイボーイ』はポルノグラフィーとみなされたのである。保守的なキリスト教団体、教育者の団体からのごうごうたる非難。「シチズン・フォー・ディーセント・リタレチャー(※1)」という団体を率いるチャールズ・キーティングはマスコミでアンチ・プレイボーイ・キャンペーンを張る。ヘフナーは批判の矢面に立って議論を戦わせ、一歩もひかない。同時にヌード以外の特集記事にも力をいれる。レイ・ブラッドベリ(※2)、ソール・ベロー(※3)、ジョン・アップダイク(※4)などを筆者に迎え、ライバルの『エスクァイア』に劣らない文学作品やインタビュー記事を掲載して発行部数を伸ばしていく。ピークだった1972年には700万部を超えるのである。それはまさにアメリカ社会が性というタブーを受け入れていった歴史である。そのことをヘフナー自身はどう受け止めているか。彼は『ヴァニティフェア』誌の取材に次のように答えている。

「セックス革命で得をしたのは男じゃない。それまで国や教会に縛られ、自然に生きることができなかった女性なんだ」

女性のヌードで成功し、なおかつ女性に恩も売る。どこまでもふてぶてしいヘフナーの言い草は、とても単なるプ遊び人レイボーイのものとは思えない。

この記事の執筆者
TEXT :
林 信朗 服飾評論家
BY :
MEN'S Precious2016年春号ダンディズム烈伝より
『MEN'S CLUB』『Gentry』『DORSO』など、数々のファッション誌の編集長を歴任し、フリーの服飾評論家に。ダンディズムを地で行くセンスと、博覧強記ぶりは業界でも随一。
クレジット :
文/林 信朗 イラスト/木村タカヒロ