小津安二郎。映画監督。言うまでもなく黒澤明、溝口健二と並ぶ日本映画の巨匠。その名声は海外でも高く、フランシス・フォード・コッポラ、ジム・ジャームッシュ、ヴィム・ヴェンダースなどの名立たる監督が彼の作品を高く評価する。

ローポジションと呼ばれる地面ぎりぎりの低いアングルを正面から撮るショットが特徴的で、モノクロームの静謐なその映像からは、隅々まで彼のこだわりが感じられる。しかしながら今回は彼の映画を論じることが趣旨ではない。監督・小津安二郎自身のスタイルに注目し、同時に彼が生きていた時代、ニッポンの男たちは、どんなお洒落をしていたのか、考えてみた。

その姿はまるで英国紳士!背広は注文服があたりまえの時代

撮影現場でも決して帽子を脱がなかった

ホンモノを見てきた男だけがもつ揺るぎないこだわり。ローアングルでの撮影シーン。三つ揃いにこだわり続けた小津監督なだけあり、撮影中もジャケットは脱いでもチョッキと帽子は外さないでいることが多かったようだ。こうしたこだわりが出演する俳優にも影響を与えたことが想像できる。写真:Photofest/AFLO

「おれは豆腐屋だ。がんもどきや油揚げはつくるが、西洋料理はつくらないよ」。小津の有名な言葉だ。いつも三つ揃いのスーツに白のシャツを着こなし、その姿は彼の映画のように頑ななまでに同じスタイルを貫いたように思える。服飾評論家くろすとしゆき氏も小津の数々の作品を見て、ファッションをチェックした経験をもつ。

「彼のスーツ姿? この時代だから既製品なんてものはなかったから、もちろんオーダーだね」

くろすとしゆき氏はかの有名なVANで活躍した人。VANが登場する1960年代まで、日本にはファッション的に語れるような既製服は世に存在していなかった。

「既製品は吊るしと言われ、格下に見られた時代。既製品を着ることはお洒落以前の問題だよね。ともかくスーツはオーダーでつくる時代。逆にオーダーだから、服を注文する人とテーラーがモノを知っていないといいモノができなかった。ひでぇもんができ上がってくることも。注文する人が洋服を知っていればいい服はできるが、知らない者同士が服をつくるととんでもない服ができてしまう、そんな時代。この時代はテーラーも技術が売り物。いかに細かく縫うかとかを競っていた。シルエットとかコーディネートとか、そういう智慧はなかった。しかし小津の写真を見ると、彼はよっぽど服に対しての造詣が深かったんだね」

小津の場合もそうだが、一人前の男はだれでも帽子を被っていた。くろす氏の父は明治生まれだったが、「外出するときには帽子を被るもんだ」と教えられたという。夏はパナマ帽、冬はソフト帽と決まっていた。

当時、東京にはファッション通が足繁く通う店が2軒あった。そしてお洒落のお手本になったのはイギリス。イギリス製品を輸入している店、丸善洋品部と伊東屋がそれだ。伊東屋は今のルイ・ヴィトンがある場所にあり、かなりハイカラな店だったらしい。

小津はゆったりとしたスーツを着ていた

東京・広尾で「金洋服店」を営み、皇室関係のスーツを仕立てる服部晋氏も小津の作品は昔から何本か見ている。

「やはり映画にはご自分の服装観というものが出るのでしょうね。小津さんはとてもお洒落な方だと思いました。この写真を見ますとそれを感じます。小津さんが活躍された時代、1950年代はスーツのシルエットが全体にゆったりしています。小津さんのパンツも太いし、ラペルや肩幅も広い。一方、映画に出演されている俳優さんたちはいかにも普通の服を着ていらっしゃる。一般的な人々を描くことが多かったためでしょうか。自然で違和感がないと思います」

写真からしか判断できないが、小津のスーツは、当時としては上手い職人によって、仕立てられたと、服部氏は明言する。

小津が仕立てていた「マシロ屋」という店

では、小津安二郎のスーツを仕立てていたのは、どんなテーラーなのだろうか?その情報は、ファッション評論家・遠山周平氏によってもたらされた。

「昔『全日記小津安二郎』という本を丹念に調べていたら、『今日、茅ヶ崎館にマシロ屋来る。仮縫いを済ませる』という記述があったんです。電話帳で調べたら、赤坂に店があって、会いに行ったんです。アメリカ大使館の前でしたよ。顧客の中に松竹の社長がいて、その関係で撮影所に行き、俳優、監督などの注文を取りに行くようになったと聞きました」

小津安二郎は第二次世界大戦従軍中にシンガポールに行っている。戦意高揚のための映画をつくる目的で行かされたのだが、現地で米軍が残した映画をずいぶん見ている。まだ日本では公開されていなかった『市民ケーン』『風と共に去りぬ』などのハリウッド映画を大量に見ているのだ。

遠山氏は、「小津はこの時代にこんな映画をつくる国にまともにやって敵うわけがないと自覚し、日本人でなければつくれないものを意識したのではないか」と言う。そして彼の洋服のセンスも当時見た映画によって磨かれたに違いないと断言する。

「彼の映画は、ある意味、黄金のワンパターン。娘が嫁に行くときの家族の葛藤などがそう。小津さんの着こなしもいつもワンパターン。春夏はモヘアかサマーウーステッド。秋冬はウーステッドかミルドウーステッド。色はすべてミディアムグレー、デザインはふたつボタンのスリーピース。グレーのソフト帽は銀座の老舗洋品店、田屋。ネクタイは田屋か横浜の紳士服の老舗、信濃屋で買っていたらしい。彼は年一作のペースだから脚本に時間をかけられる。(定宿にしていた)茅ヶ崎館に脚本家の野田高梧とこもり、脚本が完成するとマシロ屋でつくったスリーピースに着替えて、大船撮影所に出かけるわけです。茅ヶ崎の人々はその姿を、英国紳士みたいと言っていたらしいですね」

遠山氏は小津安二郎の着こなしを「水墨画的着こなし」と表現する。外国のようにシャツとネクタイを対比させ、スーツを額縁的に着こなすのに対して、額縁のない水墨画はモノトーンで侘び寂びの世界をつくる。スーツとシャツとネクタイがワントーン、全体で調和させた着こなし、これは小津映画に通じるものがあるという。

小津のスタイルはすべてに影響を与えた

遠山氏の言葉にあった「マシロ屋」は残念ながら現在は赤坂に存在しない。大井町に移り住んだ3代目の川瀬一氏によれば、鎌倉の小津の自宅に父親と一緒にスーツを納めにいった記憶はあるが、小津と会ったことはなく、彼の型紙も残っていないという。

しかし2代目・川瀬進氏がNHK─BS『小津百科』(平成16年製作)に出演したテープが残されていた。番組では1930年の作品である『朗かに歩め』を取り上げ、意外にも小津は、当時アメリカ的なお洒落に夢中であったという。ダブルのジャケットなどを着て、ファッションは冒険的であったと解説されている。しかし「マシロ屋」で仕立てるようになったころから英国紳士のようなスリーピースにこだわるようになり、『彼岸花』『秋刀魚の味』などでは、俳優も同じスタイルをしている。笠置衆は店にやってきて「監督と同じ色のスーツが欲しい」と言ったという。小津自身のスタイルが映画にも周囲にも影響を与えていたのだ。

男たちの着こなしは時代を超越する

どんな服も流行の波にもまれる。最新のデザインも何年かすると、古びたものに見えることもある。しかしウインザー公、フレッド・アステア、ケーリー・グラントなど、稀代のトレンドセッターたちの着こなしから我々が目を離せないのは、それぞれのスタイルを確立していたからだ。だから彼らのスタイルはいつの時代も輝いている。

小津安二郎もそのひとり。ストーリー、映像だけでなく、女優が着る着物さえも自ら選んだという作品に対する徹底したこだわり。映画同様、小津自身のスタイルも不変的で好みも徹底している。もちろん、自分にどんなスーツが似合うか、そのサイズバランス=黄金率を審美眼で見極めていたに違いない。だから小津のスタイルは古びて見えない。彼から学ぶべきは、スタイルもさることながら、姿勢そのものではないだろうか?

小津安二郎
(1903-1963)
1903年12月12日、東京生まれ。9歳のときに三重県へ転居するが、1923年に再び上京、松竹蒲田撮影所に入社。助監督時代を経て1927年に初監督。原節子や笠智衆などをメインキャストとして起用し、地面に近いポジションから撮影する独特のカメラアングル、切り返しなどを多用するなど、自らの撮影技法を頑なに守りながら多くの名作を世に送り出し続けた。代表作に、1953年の『東京物語』、1962年の遺作『秋刀魚の味』などがある。
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WRITING :
小暮昌弘