そのバーに入って来たのは辛口エッセイス
トで顔も知られる才人Nだ。やや手持ちぶさ
た気味なのは、ここで飲む相手が都合がつか
なくなり一人になってしまったらしい。 
「バロン」訳せば男爵。さすがにしゃれた
ものを頼むな。ドライジン、ドライベルモッ
ト、スイートベルモット、オレンジキュラソ
ーと四つも使うこれはバランスが難しく、バ
ーテンダーの技量が問われる。 
 ……と見るのに気づいてか、こちらを向き
話しかけてきた。この育ちの良いフランクさ
も人気の要素だ。 
「よくここに来るんですか」 
 俺は「まあ来るが、ここは高いので根城は
ゴールデン街」と答えると「ぜひ今から連れ
てってくれ、タクシー拾うから」と率直だ。
一度行ってみたいが最初は誰かと一緒にと思
っていたと。面白いことになって来た。 
 行きつけの建て付け悪いドアを押すと、数
人の客がいっせいにじろりと見た。マスター
は「変わったのを連れて来たな」という顔だ。
七席だけのカウンターは出版社や編集者ばか
り。本好きの俺は常連になっていた。 
 いつものバーボンソーダ。これがゴールデ
ン街のバーかとそっと見回すNは著名人だが、
ここでは新参者とおとなしくしているのが好
ましい。とはいえ隣りは練達の出版関係者。
たちまちNの近著を話題にし、回りも耳をそ
ばだてる。 
「あれは実際の経験ですか?」 
「そうだけど、あの部分はちがう、本当は
ね……」 
 Nが場を賑やかにして、俺は関係なくなっ
た。でもそれでいい。マスターが小声で「な
んでこの人と?」と聞いてきたが、ふふふと
答えず、煙草に火をつけて言った。 
 「お代わり、ダブル」

バロン BARON

今宵のカクテルは伊達男を表現したバロン。バロンとは中世以降のヨーロッパにおける貴族の称号のひとつで、ドライ・ジンをベースにドライ・ベルモット、オレンジ、レモンピールを加えてつくる口当たり爽やかなカクテルだ。
バーテンダー/ BAR GOYA 山﨑 剛

この記事の執筆者
1946年生まれ。グラフィックデザイナー/作家。著書『日本のバーをゆく』『銀座の酒場を歩く』『みんな酒場で大きくなった』『居酒屋百名山』など多数。最新刊『酒と人生の一人作法』(亜紀書房)
PHOTO :
小倉雄一郎