この原稿を書いているのは2018年の年の瀬だが、この時期は一年間で聴いてきたものを振り返るのが自分にとって恒例になっている。良い作品、気になった作品はなるべく小文で紹介してきたつもりだが、それでも案外漏れているものが多いことに気づかされる。年をまたいでしまって恐縮だが、今回はその中から、2作品を取り上げたい。

アントニオ・ロウレイロを初めて知ったのは、確か2〜3年前、個人的に愛好している日本のバンド『表現(Hyogen)』のフロントマン、佐藤公哉氏によるSNSの書き込みを通じてだったと思う。ロウレイロ自身の名を冠したファーストアルバムが高橋健太郎氏に評価されたのが2010年、その後初来日したのが2013年だから、ずいぶんと後になってからその存在を認知したのだった。それでも、日本で2012年に発表されたアルバム『Só(ソー)』は、多彩なリズムや構築的な曲の展開に、リリースされて何年も後に聴いたにも関わらず新鮮な印象を受けた。

歌とリズムが生みだす、巧妙なポップ感

Antonio Loureiro(アントニオ・ロウレイロ)の最新アルバム『Livre(リーヴリ)』(NRT)
Antonio Loureiro(アントニオ・ロウレイロ)の最新アルバム『Livre(リーヴリ)』(NRT)

そのロウレイロが2018年に発表したセカンドアルバムが『Livre(リーヴリ)』。近作『Caipi(カイピ)』が話題となったアメリカのジャズ・ギタリスト、カート・ローゼンウィンケル(ちなみにロウレイロも『Caipi』に参加している)や、ルイス・コールとともにユニット「KNOWER(ノウワー)」を組んでいるジェネヴィーヴ・アルタディといったビッグネームがゲスト参加し、本作の多彩なサウンドに華を添えている。

実はこの『リーヴリ』、CDを買ったまま、しばらく聴いていなかった。ブラジルの音楽とジャズ的アプローチをミックスしたような前作『ソー』のサウンドからは、ちょっと身構えて、耳を澄ませて聴くことを求めるようなテンションが感じられて、そのせいか新作もたやすく聴いてはいけないかもと、勝手に思い込んでいたのだった。ところが『リーヴリ』の音楽は、そんな予断を裏切るように、実にポップネスに溢れていた。

もともとドラマー(高橋健太郎氏の解説より)で、パーカッション、ベース、鍵盤楽器そしてヴォーカルまでこなすマルチプレイヤーであるロウレイロ。彼はまた「シンガーソングライター」と肩書きされることもあるが、かつてはそれに少し違和感を感じていた。ところが最新作では、実に「歌」が際立っている。もちろん『ソー』にもあった多層的なサウンド構成や、多彩なリズムなどは本作にも引き継がれているが、ここでの音楽は彼の歌声を軸に展開していくのだ。それが、実に心地よい。なんというか、歌から独特なグルーヴが広がっていくような感じ。

そして連想したのはカエターノ・ヴェローゾやミルトン・ナシメントといったMPBの音楽家たちだった。歌声がサウンドとして、グルーヴや音楽の展開に密接に関係しているのは、彼らもロウレイロも同様に感じられたのだ。同じプラジルの音楽、ポルトガル語の音楽だからに過ぎない、ともいえるかもしれないが、もしかしたら彼の地のパーカッシヴなサウンド、和声感はその言語自体に起因するものなのかもしれない。そしてロウレイロはそれをしっかりと理解・体得し、自身の音楽として具体化したのではないだろうか。邪推かもしれないが。

Tigran Hamasyan(ティグラン・ハマシアン)の2018年2月リリースのミニアルバム『For Gyumri』(Nonesuch)
Tigran Hamasyan(ティグラン・ハマシアン)の2018年2月リリースのミニアルバム『For Gyumri』(Nonesuch)

歌声と音楽、いうことでは、ティグラン・ハマシアンのミニアルバム『For Gyumri(フォー・ギュムリ)』も印象的だった。ハマシアンは小連載でも取りあげたことがあるアルメニア出身の(ジャズ・)ピアニストだが、本作は彼の故郷であるアルメニアの町ギュムリに寄せた音楽という。本作の冒頭、彼のピアノとともに、彼の声がフィーチャーされている。中には口笛が混じる曲もある。

彼のルーツを感じさせる独特な節回しのピアノがハマシアンの特徴だが、本作ではそれがあまりシリアスに響かずに、ジャジーなタイム感の中にうまく溶け込んでいるようだ。さらに織り交ぜられる歌声(歌詞があるわけではない)は、音楽に適度なリラックス感をもたらしている。それはダウン・トウ・アースな印象とも、表現できるかもしれない。

そして、アントニオ・ロウレイロとティグラン・ハマシアン、彼らの最新作に共通しているのは、彼らの裡に響いている歌を聴いている、という感覚だ。もちろんすべての音楽家にとって、生み出す音楽は子供のようなものだろうが、聴き手がその音楽に触れて、音楽家の心身を実感するかというと、必ずしもそうではないように思う。挙げた2作品がもたらすものは得難い経験であるのと同時に、とても心和む、ポジティブな境地をもたらすといえる。少なくともいちリスナーにとっては。

この記事の執筆者
『エスクァイア日本版』に約15年在籍し、現在は『男の靴雑誌LAST』編集の傍ら、『MEN'S Precious』他で編集者として活動。『エスクァイア日本版』では音楽担当を長年務め、現在もポップスからクラシック音楽まで幅広く渉猟する日々を送っている。