【目次】

【「源内忌」とは?】

■「源内忌」って何?

「源内忌」は12月18日。 江戸時代中期の本草学者・戯作者である平賀源内(ひらが げんない)の忌日です。2025年は横浜流星さん主演の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺〜』で、安田顕さんが平賀源内を魅力的に演じました。観ていた方々は、平賀源内の存在を一気に身近に感じたのではないでしょうか。

■「忌日」って?

「忌日(きじつ)」は「きにち」とも読み、故人の死亡した日、つまり「命日」のことです。毎年、死者の成仏を願って仏事供養が行われます。

■平賀源内が亡くなったのはいつ?

源内は1779(安永8)年の12月18日(旧暦) に、獄中で破傷風(破傷風菌による感染症)により亡くなったと伝えられています。新暦(現在の暦)にすると1780年1月24日 で、この日に没したとする記録もありますが、慣習的に、12月18日を源内の忌日とするのが一般的です。


【偉才・平賀源内の功績と人物像「ビジネスに役立つ知識と雑学」】

■「日本のダ・ヴィンチ」。江戸時代屈指のマルチクリエイター

平賀源内は1728(享保13)年生まれ、1779(安永8)年没。 讃岐国(現在の香川県さぬき市あたり)の出身です。「エレキテルを発明した人」として記憶している人も多いかもしれませんが、実際には西洋の技術をもとに装置を復元し、日本で紹介した人物です(これに関してはあとで詳しく説明しますね)。

それだけでなく、源内が才能を発揮した分野は非常に幅広く、蘭学、本草学(薬学・博物学)、発明、絵画、文学、戯作、狂歌、陶芸など、まさに多才なマルチクリエイター。江戸時代の最先端をいく科学や芸術、文学、実用技術を自在に横断し、現代で言えば“日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ”と称されるにふさわしい人物です。

■子どの時代に「からくり工作」で大人を驚かす

源内は12歳のときに「お神酒天神(おみきてんじん)」という――今で言えば「からくり掛け軸」のような仕掛けをつくったというエピソードの持ち主です。掛け軸に酒を供えると、掛け軸の絵の中の天神さまの顔が赤くなる、という仕掛けで、大人たちを驚かせたそうです。 このエピソードからも、「既存の枠にとらわれない発想力」と「技術を伴ったユーモアのセンス」があった人物だと伝わってきますね。

■日本の庶民に「電気」という未知の存在を知らしめた

まず、勘違いしている人も多いのが「源内とエレキテルの関係」です。上でも少し触れましたが、エレキテルは源内が発明した装置ではありません。

「エレキテル」は「摩擦起電器」と訳され、当時の蘭学書や伝聞の中で、ヨーロッパにはパチンと火花を出す不思議な装置が存在すると紹介されていました。この記事を読んだ源内は、長崎でこの装置の不良品を手に入れ、復元を試みたといわれています。それが、摩擦により発生した静電気を『ライデン瓶(蓄電器)』に蓄え、銅銭を通して「パチン」と放電させるという仕組みでした。

では、源内の功績は何だったのでしょうか? 18世紀後半、当時のヨーロッパでは、「電気」は科学的関心の高まる最先端の分野とされていました。源内は、文献や蘭学の知識をもとにエレキテルを復元し、それを芝居小屋や見世物小屋で公開。火花や発光といった現象を目の当たりにした庶民に、「電気とは何か」という未知の概念を直感的に伝えたのです。いわば“日本初の電気プレゼンター”というわけです。

こうした「実演を通じた知識の普及」は、源内が単なる学者ではなく、現代でいう“サイエンス・コミュニケーター”であり、実践的なクリエイターだったことを物語っています。

■BL小説の先駆者でもあった!

源内は男色趣向のあった人物として知られており、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にしていたと伝えられています。こうした源内の嗜好は世間に広く知られており、『江戸男色細見』という、陰間茶屋(男娼が接客を行った茶屋)を紹介する内容の書物や、現代でいうボーイズラブ小説(BL)に近い表現も見られる『根南志具佐(ねなしぐさ)』という作品も執筆したといわれています。

そして、NHK大河ドラマ『べらぼう』でも描かれたように、蔦屋重三郎が出版した吉原遊郭のガイドブック『吉原細見』の序文も源内が手がけました。この吉原細見は大きな話題を呼び、源内の文才と蔦屋の巧みな出版戦略が見事に結実した好例となりました。

■「土用の丑の日=うなぎ」は平賀源内の仕掛けだった?

源内は今で言うコピーライターとしても有能でした。「土用の丑の日」にうなぎを食べる風習を定着させたのも、源内だという逸話が残っています。

夏季に売上が伸びず困っていたうなぎ屋から相談を受けた源内が、店主に「本日、土用丑の日」と書いた紙を店の前や中に貼るよう提案しました。当時、「土用の丑の日には“う”のつくものを食べると夏負けしない」と言われていたため、源内はそれに便乗するようなキャッチコピーを考案したのですね。

このキャンペーンはたちまち評判となり、「土用の丑の日といえばうなぎ」という習慣が広く浸透するきっかけになったとされています。マーケティングの先駆者ともいえる、源内の機転と観察眼がよく表れたエピソードです

■源内は生きていた⁉

1779(安永8)年、源内は過失による殺傷事件を起こして投獄され、そのまま獄中で病死したとされています。ところが、親交のあった老中・田沼意次のはからいにより、表向きは獄死したことにしておいて、実は意次の領国である遠江国相良(とおとうみのくにさがら/現在の静岡県牧之原市)へ逃がしたという「源内生存説」も伝わっています。

この説によれば、源内は相良で村医師として暮らし、80歳過ぎても健在ということになっています。地元には“源内が伝えた”とされる『相良凧』の伝承があり、浄心寺には彼の墓とされるものも存在します。真偽のほどは不明ですが、生存説が語り継がれるほど、源内が当時いかに名を知られた人物だったかを物語っています。

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平賀源内について、「名前は聞いたことあるけど、何をした人かまでは知らない」という方も多いのではないでしょうか。彼は、江戸という制約の多い時代において、「西洋科学」「実用技術」「アート」「文学」「出版」「マーケティング」といった多分野にわたり、卓越した才能を発揮した希有な人物です。

エレキテルの復元によって“電気”という未知の概念を庶民に紹介したり、「土用の丑の日=うなぎ」を仕掛けて販促に成功したりと、源内の行動は単なる学問や芸術の枠に収まりません。彼はまさに、実践知と創造力を融合させた「江戸のイノベーター」でした。

その柔軟な発想や、異なる領域を横断するマルチな視点は、現代ビジネスで求められる「越境思考」や「価値創出型人材」という考え方にも通じます。源内のように、分野の枠を超えて思考し、行動する姿勢は、変化の激しい今の時代だからこそ、私たちのキャリアにおいて大きなヒントになるのではないでしょうか。

この記事の執筆者
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参考資料:『日本国語大辞典』(小学館) /『デジタル大辞泉』(小学館) /『日本大百科全書 ニッポニカ』(小学館) /『世界大百科事典』(平凡社) /『NHK大河ドラマ・ガイド べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~ 前編』(NHK出版) /『NHK2025年大河ドラマ完全読本 べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺』(産経新聞出版) :