おいしいもの、未知なものあらば東奔西走する秋山都さんが、自身が発見したSomething Preciousをレポート。今回は夏の軽井沢へ――自分でも気づいていなかった心の不調を整えてきたそうです。
心の中にたまっていた澱を見つめるきっかけをくれた、「星のや軽井沢」への旅
人間とはどんな環境にもいつの間にか順応してしまうもの。いまは電車やタクシーに乗るときはマスクして、お店の中でもヒソヒソ話。大人数で集まるようなパーティにはできるだけ顔を出さないし、80歳を超えた両親にもお正月以来会っていません。なんならPrecious.jp編集部のみなさまにも…だいぶご無沙汰しちゃっていますね。日頃メールやメッセンジャーで意思疎通がはかれてしまうから、これでよいのかと思っていました。
毎日なんとなくフツーにこなしていることを、やっぱりこれはフツーじゃないんだ、と気づかせてくれたのは、先日「星のや軽井沢」での滞在。ひとりで、たった1泊ではありましたが、雨に洗われ、さらに青々しく美しさを増した軽井沢が、自身の不調と無意識に隠していた心の傷を気づかせてくれたのでした。
今回滞在したのは「星のや軽井沢」。すでにみなさまご存知かと思いますが、全国に独創的なテーマで圧倒的な非日常を提供する「星のや」、温泉旅館ブランド「界」、リゾートホテル「リゾナーレ」、都市ホテルブランドの「OMO(おも)」、カフェホテル「BEB」の5ブランドを中心に国内外で58施設を運営する「星野リゾート」の開業地にして、総本山とも言える場所です。
初代経営者の星野国次がこの地に星野温泉を掘削したのが1904年、星野温泉旅館を開業したのが1914年、ラグジュアリーなリゾートとしての「星のや軽井沢」開業が2005年ということですから、この地が日本のリゾートを代表する存在であることに異を唱える人はいないでしょう。
この「星のや軽井沢」で季節に応じて実施されているのが「健幸(けんこう)滞在」です。「基本的な運動と食事、睡眠によって心と身体の両面を整える」ということですが、これだけ聞けばよく高級リゾートにありがちなウエルネス・プログラムと大きく変わるところがなさそうにも思えます…しかしながら、その一部を実際に体験してみますと、その内容は心にずんと響き、沁みいるようなものでした。
「星のや軽井沢」の健幸(けんこう)滞在
まずこの「健幸滞在」が他リゾートのウエルネス・プログラムと一線を画しているのは、医師の稲葉俊郎氏との共同開発であるというポイント。この稲葉医師は西洋医学だけではなく、伝統医療、補完代替医療、民間医療にもくわしく、大学で教鞭をとりながら、22年4月からは軽井沢病院の院長も務めているのだそう。
まだ42歳という若さにも好感が持てます。ここだけの話、○○先生監修などという際に余りに高齢な方だと、名前を貸しただけなのかなと穿った見方しちゃいますもんね(私だけ?)。
「稲葉先生のメソッドを理解する一助になれば」と広報担当のSさんが一冊の赤い本を貸してくれました。「健幸滞在」を監修している稲葉俊郎氏の著書『いのちを呼びさますもの』(アノニマ・スタジオ)。もともと、本が大好き。しかもひとり旅だから読む時間はたくさんあるというわけで、この本をテラスで一杯飲みながら、食事中に、お風呂あがりに、ベッドの中で、読みました。
すると、あれ? あれあれ? 知らぬ間に涙が湧いてきて、ツツーと流れ出るではありませんか。幼かったころのトラウマや、長年抱えてきた不安や不信……気づかずに心の中にたまっていた澱がぶわっと浮き上がってきたような感覚です。
とくに夕食の間はこの本を読みながら日本酒ペアリングを楽しんでいたので、酔いもあってか感情が増幅され、大いに心中をかきたてられました。私がとくに心動かされたのは、たとえば以下のようなフレーズです。少し長いのですが、引用させてください。
「人間は絶対にひとりだけでは生きていけない存在として、人生の幕を開ける。しかし、すべての生き物がそうなのではなく、『ヒト』がとくにそうした特徴をもった生命体なのだ。人間がこの世に生まれてきた時、世話をされることなく放り出されてしまったらすぐに死んでしまうだろう。人生の始まりは圧倒的に弱く脆い存在であり、誰かが食事を与えてくれて、排泄物の処理をしてくれないと生きることを続けることすらできない。そうした記憶があろうとなかろうと、人間は必ず誰かの愛を受け、生き続けることができた。
『わたし』のひな型となる自我が生まれるプロセスには『弱さ』が核にある。だからこそ愛を体験し、誰かに大切にされた体験が必ずある。それは生き残っていることの前提となる刻印だ。生きているだけで、生き残っていることに誰もが無条件に自信を持っていい。誰かの存在によって生き延びたという証なのだから」(『いのちを呼び冷ますもの』より)
涙…くわしくは書きませんが、私は長らく恨みと悲しみを感じながら過ごしてきました。なぜ?どこが?と、どこにもぶつけられない黒い感情を抱きながらも、「見ぬもの清し」とばかりに心中の臭いモノにはフタをして、明朗快活な自分を演じ、いつの間にか自身もそのようなキズのない存在であると錯覚してしまったのかもしれません。でも本来、「弱く脆い存在」でありながら、「誰かに大切にされた」ことのある自分自身を確認できたのは、極私的に大きなできごとでした。
想いに耽り、温泉に入り、また本を読み…を何回繰り返したかしら。それはさながらサウナ→水風呂→外気浴を繰りかえすサウナーの“整い術”にも似たプロセスで、いつの間にか深く寝入ってしまったようです。
起きたら、雨。雨粒に葉をゆらす樹々はどれも緑濃く、山全体で大きく深呼吸をしているようにも見えました。前夜はかなり日本酒を飲んだのにむくんでいないのは、温泉浴と心のデトックスのおかげかな。テラスに出て、ハンドドリップでコーヒーを淹れていたら、いつかどこかの茶室で見た禅語の一句を思い出しました。
「雨後青山青転青」
うごのせいざんあおうたたあお、と読むのだそう。雨に洗われた山はその緑がいっそう冴え冴えと青く美しい、という意味だったと記憶しています。私の人生、この日に限らずけっこう雨に降られてきたけれど、この雨もあの雨もぜんぶ必要な雨だったのかもしれない。雨に降られてなお一層青々(あおあお)と、どーんと構える山のようでありたいと思いました。
本来、晴れていたら「軽井沢野鳥の森」をウォーキングする予定でした。この「健幸滞在」では適度な運動をすることで心身のリラックスを促すのですが、残念ながら雨ではそれはかなわず。でも、雨の山をぼーっと眺めるのも悪くなかったし、なにより自分の内なる世界にディープダイブしたような…不思議な心持ちです。
いまこうしてマスクをして無表情で電車に乗っていること、家族や友人にも会えないこと、大きな声で笑わないこと…こんなのは決してフツーではないし、慣れる必要のないことです。知らぬ間に傷つき、ストレスを溜めていた自分の心にまっすぐ向き合うチカラを与えてくれた「星のや軽井沢」での1泊2日でした。東京での忙しい日々に疲れたら、また軽井沢へ向かうとしましょう。きっとあの青い森が私を迎えてくれるはずです。
問い合わせ先
- 星のや軽井沢
- 住所/長野県北佐久郡軽井沢町星野
TEL:0570-073-066(星のや総合予約 9:30~18:00) - アクセス/「軽井沢」駅から車で約15分。
※外出時には新型コロナウィルスの感染対策を十分に講じ、最新情報は公式HPなどでご確認ください。
- TEXT :
- 秋山 都さん 文筆家・エディター
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- WRITING :
- 秋山 都