ワインが告げる、リリースの時

「ドン ペリニヨン」醸造最高責任者のヴァンサン・シャプロン氏
「ドン ペリニヨン」醸造最高責任者のヴァンサン・シャプロン氏。1999年に「モエ・エ・シャンドン」入社、前任のリシャール・ジョフロワ氏のもとで経験を重ね、メゾンの“時間と創造“を受け継ぐキーパーソン。2019年より現職。

「私たちが決めたのではありません。ワインが決めたのです」。2026年に「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2017」、「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2008 プレニチュード 2」、そして「ドン ペリニヨン ロゼ ヴィンテージ 2010」という3つのヴィンテージが同時期に姿を現す理由について、ヴァンサン・シャプロン氏はそう答えました。「ドン ペリニヨン」の醸造最高責任者である彼が繰り返し口にしたのは、“Time and transmission”、すなわち「時間と継承」という言葉でした。セラーの中で異なる熟成を重ね、それぞれが飲み手の前に現れるべき時を迎えた3本。それは単なる新作の発表ではなく、自然から人へ、前任者から次代へ、そしてメゾンから飲み手へと手渡される、ドン ペリニヨンの創造の物語ともいえるでしょう。

その背景にあるのは、時間をクリエイションの一部と捉えるドン ペリニヨンの思想です。熟成の歩みを注意深く見極めながら、それぞれのヴィンテージが本来の均衡にたどり着く瞬間を待ち、通常のヴィンテージでもリリースまでに8年から9年、プレニチュード 2にはさらに長い時が必要とします。すべてが加速し続ける現代において、これほど長く時間をかけたものを味わうことは、なんとも贅沢な体験。シャプロン氏は「自然の時間は、人間の時間よりもずっとゆっくり進む」と言います。ワインは、いまを生きる私たちに、スローダウンすることを促してくれる存在でもあるのです。

「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2017」 「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2008 プレニチュード 2」 「ドン ペリニヨン ロゼ ヴィンテージ 2010」
異なる時間を宿した3本。ドン ペリニヨンの威厳を醸し出す。

「ドン ペリニヨン」は、単一年に収穫されたブドウだけで造られるヴィンテージ シャンパーニュ。しかし、毎年必ず造られるわけではありません。その年の個性を、「ドン ペリニヨン」として表現できると判断したときだけ、ヴィンテージは世に送り出されます。自然がもたらした年の個性を受け取り、メゾンの美意識によってひとつの表現を描く。その積み重ねもまた、メゾンにおける継承のかたちです。

シャプロン氏は、それを単なる品質判断ではなく「クリエイティブな決断」と表現します。造るか、造らないか。リリースするか、しないか。そこには技術やマーケティングでは測れない、人間の感情、覚悟、そして創造へのコミットメントがあります。今回の3本は、「ドン ペリニヨンの美しさだけでなく、その奥にある“決断”を味わうシャンパーニュでもあるのです。

3つのヴィンテージ、3つの創造の決断

「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2017」は、前醸造最高責任者リシャール・ジョフロワが手がけた最後のヴィンテージ。2017年は、春先の霜、暑く乾燥した夏、そして収穫直前の雨という難しい条件が重なった年でした。とくにピノ・ノワールには厳格な選果が必要となり、結果として生産量は大きく絞られました。

「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2017」

「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2017」。ペトリコールやジャスミン、トースト、スモークの香りに、熟した桃やプラム。酸味と甘美さ、緊張感と豊かさが交差し、クリーミーな余韻へ。750ml ¥39,160

それでもメゾンは、このヴィンテージを宣言しました。シャプロン氏は2017年を称し、少し茶目っ気を込めて「バッドボーイ」と言います。酸が高く、苦味やフェノールの存在感もあり、他のヴィンテージのようにおとなしく整ってはいない。けれど、その意外性のあるエネルギーこそが、この年の魅力なのだと。熟した果実の豊かさ、凝縮感、そして張りつめた酸。さまざまな要素がせめぎ合いながら、ひとつの強い個性として立ち上がる2017年は、まさに困難な年を創造の力で美しさへと導いたヴィンテージです。

これに対し、「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2008 プレニチュード 2」は、異なる表情を見せます。2008年は、2017年とは対照的に冷涼でフレッシュな年でした。柑橘を思わせるアロマ、シャープな酸が先行する精緻なストラクチャー。最初にリリースされたヴィンテージ 2008は、緊密でシャープな美しさを備えていました。

「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2008 プレニチュード 2」
「ドン ペリニヨン ヴィンテージ 2008 プレニチュード 2」。柑橘や白い花のアロマに、ローストアーモンドやブリオッシュ、潮のニュアンス。爽やかな酸味とクリーミーな舌触り、洗練された苦味が長く続く。750ml ¥84,040

シャプロン氏によれば、このヴィンテージのワインには、さらなる熟成が必要でした。冷涼な気候に育まれたブドウには、もともと粘性やクリーミーさ、旨味の要素が多くはありません。瓶内二次発酵後、澱とともに長い時間を過ごすことがこの年には大きな意味を持ち、プレニチュード 2として約15年を経た2008年は、かつての緊張感を保ちながら、クリーミーかつ奥行きのある質感を併せもつ、高次元の品質を実現しました。

プレニチュードとは、同じヴィンテージが長い熟成の中で迎える複数の到達点を指します。P1、P2、P3は優劣ではなく、時間の経過によって現れる表情の違い。シャプロン氏は、P2がヴィンテージに新たなレイヤーを加え、最初のバランスを補完していくものだと説明します。2008年の場合、その時間が酸の緊張感にクリーミーさや旨味を添え、より奥行きのあるハーモニーへと導いているのです。

そして3本目、「ドン ペリニヨン ロゼ ヴィンテージ 2010」。シャプロン氏はこのロゼについて、「世界でもまだ十分に理解されていない、ミステリアスなワイン」と語りました。一方で、彼が最も愛し、メゾンの哲学を最も深く体現していると感じているのも、このロゼだと言います。

「ドン ペリニヨン ロゼ ヴィンテージ 2010」
「ドン ペリニヨン ロゼ ヴィンテージ 2010」。イチゴや柑橘のゼスト、ポプリ、ドライフラワーに、鉄やテラコッタを思わせるミネラル感。繊細で濃密、絹のような口当たりと精緻な酸が美しい。750ml ¥65,560

その理由は、ロゼがハーモニーとテンションを同時に宿しているから。彼にとってハーモニーとは、静かに安定した状態ではなく、対立するものや異なるもの、緊張し合うものが、絶えずバランスを取り続けることで生まれる動的な状態だと言いますで。陰と陽、黒と白。「ドン ペリニヨン ロゼ」においてピノ・ノワールは、赤ワインとして、そして白ワインとして、二つの方向から表現されます。

色も、香りも、味わいも強い。けれど同時に、驚くほど繊細でなければならない。その均衡は、まるで張りつめた綱の上を渡るように危うく、だからこそ感情を揺さぶります。約15年の熟成を経た2010年のロゼは、ピノ・ノワールの力強さと生命力を映し出しながら、ドン ペリニヨンらしい精緻さと優美さを失いません。華やかという言葉だけでは語ることのできない、深い緊張を秘めたロゼなのです。

時間を待つことこそ、現代のラグジュアリー

「ドン ペリニヨン」がサーブされる
グラスへと注がれると同時に、ボトルの中の長い時が開かれる。 

2017年は、人から人へと受け継がれるヴィンテージ。2008年 プレニチュード 2は、時間が新たな表情を授けたヴィンテージ。そしてロゼ 2010は、ピノ・ノワールの生命力と創造の緊張を未来へ手渡すヴィンテージ。3本はそれぞれ異なる個性をもちながら、「ドン ペリニヨン」が何を信じ、何を待ち、何を決断してきたのかを物語っています。

美しいシャンパーニュを開けることは、単に贅沢な泡を味わうことではありません。自然が与えた年、人が下した決断、光の届かない地下のセラーで積み重ねられた時間。そのすべてを、いま自分のグラスに受け取ること。「ドン ペリニヨン」の3つのヴィンテージは、ラグジュアリーとは時間を急がせることではなく、時間が満ちる瞬間を待つことなのだと、私たちに教えてくれるでしょう。

 
 

ドン ペリニヨン(MHDモエ ヘネシー ディアジオ)

 

EDIT&WRITING :
谷宏美