How time flies! 時間が経過するのは本当に早いものですね。
いつの間にか季節はまたまた変わり、夏の暑さが身に沁みる今日この頃です。人生においても、私たちはたくさんの季節を過ごし、大人になり、やがて立ち止まる時が来ます。
そんな時、自分がどういう道のりを歩いて生きてきたかを振り返り、人生で一番輝いていた時間を思い出し、「あの日、あの場所に、戻れるものなら戻ってみたい」と、過ぎ去った時間を懐古することもあるかもしれません。
こんにちは、海外からのお客様をアテンドし、日本を紹介する通訳案内士をしているキャメロン今井です。今回、私がご紹介する海外からの外国人ゲストは、まさしくそんな体験をしたひとり。
しかも、50年もの時を超えて、子供時代の思い出を辿るため、はるばる海を越えてアメリカから日本にやってきた、夢を単なる夢のままで終わらせない、人並み外れた行動力、熱い想いを持った女性の物語です。
(今回のコラムは、ユーミンの名曲『やさしさに包まれたなら』をBGMにお読みいただけたら幸いです♪)
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■ある日「50年前に日本で通っていた学校、家を探してほしい」という前代未聞のリクエストが寄せられる
アメリカ、ノースキャロライナから日本にやってきた、テリーさん(母 60代)とタイラーさん(娘30代、最近結婚したばかり)の母娘に出会ったのは、まだ新緑が眩しい季節でした。
明るく、カジュアルで気さくなふたりは、よくいるtypical Americanでしたが、彼女らのリクエストはまったくもってtypical(典型的な)ではありませんでした。
ゲストに初めてお会いした際、私たち通訳ガイドは、まず一番最初に「Do you have any places you`d like to go today?」(今日、特に行きたい場所はありますか?)とゲストにお聞きし、希望行程を確認してからツアーをスタートさせます。
通常だったら「浅草、皇居、明治神宮、原宿、渋谷etc.に行きたい」。つまり、普通の都内観光をしたい、という答えが返ってくるのですが、今回は違いました。
思わず「えっ?」と聞き返してしまったほど、驚きの答えが、母親のテリーさんから返ってきたのです。
「Yes! Actually, I want you to take us to the school I went to 50 years ago, and hopefully
find the house I lived in then too.」
(行きたい場所?あるわ!50年前に通っていた学校に連れて行ってほしいの。そして、できたら、その当時住んでいた家も探し出して!)
「えっ? どういうこと? 事情を教えて?」。詳しく話を伺ったところ、以下の経緯が判明しました。
ーー現在60代半ばのテリーさんは、50年前(1970年初頭、13〜14歳の頃)に、父親の仕事の関係で、家族で日本に移り住みました。
テリーさんを含む4人の子供たちは、調布にあるアメリカンスクールに入学手続きを済ませ、家も学校から程近い一軒家に決まり、そこで約三年間、子供時代を幸せに過ごしたのだそう。
今回、半世紀ぶりに来日したため、できれば自分が住んでいたところを、娘にも見せたい。
ーーということだったのです。自分の子供時代に住んでいた家、学校をもう一度見てみたい、という想いは、誰でも抱くものだけど、まさか、それを本当に実行するために来日するなんて、すごい!
私は、彼女から伝わってくる熱い想いに動かされ、本気でこのリクエストに応えなくては!という使命感に駆られました。
「調布のアメリカンスクール・イン・ジャパン(通称ASIJ)には、数年前に仕事で行ったことがあるから、場所もわかるし、学校の前までは間違いなく辿り着くことはできるけど、今日、アポもなくいきなり行っても、セキュリティーが厳しくて、校内に入れてもらえるかどうかはわからない。それでもいい?」
と彼女に確認すると、「それでもかまわない。とにかく、自分が通っていた学校をもう一度、見てみたいの」とテリーさん。
海外ゲストのアテンド用の貸切車両(ふたりが滞在するホテルが手配したベンツ)の中で、一連の経緯を聞いていた下町生まれのドライバーさんも「僕も、思い出探しの旅のために、江戸っ子としてひと肌脱ごう!」と、協力は惜しまないという、うれしい姿勢を見せてくれました。
というわけで、通訳案内士から探偵業務へと業務内容がシフトした、一風変わったガイドツアーがスタートしたのです。
■日本の中のアメリカ。インターナショナルスクールに潜入!
都心から高速に乗り、車をビューンと飛ばし、約40分程で調布のASIJに到着。
東京ドーム1個分より広大なキャンパス(約6万平方メートル)には、小中高の校舎のほか、2つのグラウンドと3つの体育館、屋内プール、6面のテニスコート、フィットネスジム、ダンススタジオ、ウェイトトレーニングルーム、リハビリセンターと、各種スポーツ設備が充実。さらに映画撮影用のスタジオまで完備。
また施設の豪華さのみではなく、テクノロジーを駆使した質の高い教育もASIJの特徴のひとつ。各界で活躍する著名人を多数輩出しており、最も進歩的な学校として知られている。
正門前に車をつけ、学校前に降り立った私たち一行。正門には制服着用の警備の方(日本人)がおり、やはりセキュリティ-厳重な様子が一見して感じられましたが、そんなことにひるんでいるわけにはいかない!と、意を決した私。
「彼女はこちらの学校の卒業生なんですが、今回、母校をもう一度見てみたい、と、 わざわざアメリカから50年ぶりに来日したんです。事前許可は取っていませんが、可能でしたら、校内を見せていただくことはできますでしょうか?」と、警備の方に単刀直入に訪問目的を伝えてみたところ、すぐに、校内の担当者の方に(英語で)私たちの訪問の旨を伝えてくださり、特別に入校OKの許可をいただくことができました!
まさかの展開に、「I can`t believe it !」と喜ぶテリーさん。50年ぶりの母校訪問が叶ったことに、夢心地の様子でした。
当然のことながら、校内に一歩足を踏み入れたら、そこは、日本の中のアメリカ。
ASIJ校内に入るのは二度目の私ですが、ロッカーの前で女の子たちがおしゃべりしていたり、体育館で男の子たちがバスケをしていたりと、アメリカのテレビドラマの世界がそのまま目の前で繰り広げられているわけですから、日本にいるはずなのに日本ではない、アウェイ感満載の異空間に迷い込んだような、不思議な感覚を覚えました。
一方のテリー母娘と言えば、「日本の中のアメリカ」の中においては、英語は通じるし、上記の光景も彼らにしてみれば、見慣れたものだし、ホームに戻ってきたかのように、いきなりリラックスし始めた様子。
事務局に通され、担当者(アメリカ人)の方に、今回の母校訪問の経緯、50年前の母校で過ごした思い出を熱く語り始めました。
担当者の方も、テリーさんの母校愛を十二分に理解してくださり、50年ぶりの母校訪問を大歓迎。ASIJが50年の時間を経て、どんな風に変貌を遂げていったかを説明してくれた上で、「Alumni community (同窓会コミュニティー)」に登録するように、と勧めてくれました。
「Once you`re registered for alumni community, you`re supposed to receive monthly newsletter, and you can get in touch with past student all over the world, even if it has been 50 years.」
(一度、同窓会コミュニティーに登録したら、今後、あなたの元には毎月ニュースレターが届けられ、また、世界中に散らばっている、かつての同級生とも50年ぶりに連絡取りあうことができますよ)
担当者の方がこんな解説をしてくれているのを横で聞いていた私は、「かつて一緒に学んだ友達とまた繋がることができるように配慮してくれるなんて、なんてすばらしい学校なんだろう」と感激。
もちろん、当事者のテリーさんも娘のタイラーさんも大喜び! テリーさんは娘に「alumniに登録できたことを、アメリカにいるテリーのお姉さんにすぐにメールで知らせて」と、かつて日本に一緒に住んでいた姉にも喜びのお裾分け連絡もされていました。
■クラスアルバムの中に、50年前の自分を発見!
校内をくまなく案内していただいた後は、さらに親切なことに、担当者の方から「あなたがASIJに通っていた頃のクラスアルバムも現物とデジタルで保管されているから、よかったら見てみませんか?」と、うれしい提案が。
資料室に案内されると、そこには開校以来からのクラスアルバムがぎっしりと並べられており、在籍年度からすぐに該当アルバムを探し出すことができました。クラスアルバムの中に、50年前の若く、かわいらしい自分を発見したテリーさんは歓喜の声を上げ、「私、こんなに若かったのね」と、盛んに照れていました。
こうして、思いもかけずに、母校で同窓会コミュニティ―登録、50年前のクラスアルバムまで見ることができ、テリーさんの50年分の想いは報われました。
しかし、期待もしてなかったのに、ここまでトントン拍子に事が進んだことで、テリーさんの郷愁の念はさらに強まったようで、どうしても「自分が当時、住んでいた家に行ってみたい」と言い出したのです。
アメリカの親戚から入手したという当時の家の住所は、記憶間違いだったことが判明。さらに、50年前の話ともなると、土地の所有者が代わり、昔の家は既に取り壊され、新しい家が建っている可能性が大きい。
「何の手掛かりもないのに家を探すのは難しい」と、私とドライバーさんがどんなに説得しても、「学校であんなに大きな収穫があったのだから、家も絶対に見つけられるはず」と、私たちの言うことをまったく聞き入れようとしませんでした。私もドライバーさんも、テリーが納得するまでとことん付き合おう、と腹を決めました。
■セピア色に変色した家の写真と、遠い記憶を頼りに家探し。ご近所への聞き込み開始!
今回、テリーは、セピア色に変色した50年前の家の写真数枚を含む、古い写真をアメリカから持参してきていました。この古い写真とテリーの遠い昔の記憶のみが、当時住んでいた家に辿り着けるかもしれない、唯一の手掛かり。
「I remember that my old house was located in front of a temple.
I could see Japanese school and a park from the window on the northern side of my house.
And there was a garden fence where I used to always jump over.」
(住んでいた家の前にはお寺があったのを覚えている。家の北側の窓からは、地元の日本人の子が通っていた学校の建物と公園が見えた。そして、うちの庭にはフェンスがあって、子供のころ、私はよくフェンスを飛び越えて外に遊びに行ってたの)
これだけの限られた記憶と古い写真だけを手掛かりに、私たちは、まるで探偵さながら、ご近所の古いお宅を一軒ずつ聞き込みます。残念ながら、50年前からこの地に住んでいる方は、話を聞いた方の中にひとりもおらず、何の手掛かりも得ることができませんでした。
■駅前のお蕎麦屋さんの厚い人情、ご協力のおかげで有力情報ゲットに成功!
家探しはもう、あきらめるしかないかも、と、すっかり気落ちしていたテリーさんですが、「気を取り直して、どこかでお昼でも食べよう」と私が提案し、駅前のお蕎麦屋さんに入ることにしました。
店内に足を踏み入れた瞬間、「私は50年前、ここに来た記憶がある!」。古い記憶を呼び戻した様子のテリーさんの目の色が、再び輝き出しました。
こちらの「さらしな大屋」さんは、まるで寅さんの映画『男はつらいよシリーズ』に登場していそうな、昔ながらの人情味あふれる雰囲気が漂う、お蕎麦屋さん。仲良し家族(ご両親、娘さん3人)が力を合わせて家族経営していらっしゃる、創業40年の老舗です。
テーブルに案内された私たちは、ひとまず、お蕎麦、枝豆、ビールを注文。
ランチタイムで混み合っている店内。忙しいタイミング、お店の邪魔をしてはいけないと、声をかけるタイミングを見計らいつつも、お蕎麦を運んでくれたお店の娘さんに、テリーさん家族が50年前に住んでいた家の写真を見せ、この写真の家に見覚えはないか? 「どんな些細なことでもいいから、50年前のこの近所の情報を教えてほしい」とお願いしてみました。
私たちの話を親身になって聞いてくれた娘さんの話によると、「うちのお蕎麦屋さんが開業したのは40年前。それ以前は、この場所で牛乳屋を営んでいました。今年80歳になる母なら、もしかして当時のことを覚えているかも」と、奥で休んでいた女将さんをわざわざ呼びに行ってくれたのです。
温和な笑みをたたえた女将さんが登場。「50年ぶりによくぞ日本に帰ってきてくださいましたね」と、テリーさん母娘に優しい歓迎の言葉をかけてくれたのです。
さっそく、女将さんに50年前のテリー家族の家の写真を見せると、「私、このお宅のことはよく覚えています。当時、うちは牛乳屋だったから、毎日、牛乳を配達に伺ってました」と、信じられない答えが返ってきたのです。
私たちの予想通り、テリー家族が住んでいたお家は、所有者が代わり、解体され、更地となり、今や新しいお家が建っているとのこと。
町内地図をお店の奥から取り出してきてくれた、お蕎麦屋さんの別の娘さんが、「お寺が目の前にあって、庭から日本の学校が見える場所は、多分、ここしかない」と、テリーの家を地図上で特定してくださいました。
いったんは絶望的に思われた家探しでしたが、まさかの有力情報を入手できたテリー母娘は、再び一筋の希望の光が見えてきたことに歓喜。お蕎麦屋さん家族の厚い人情にも大感激! テリーさんの頬にはこのとき、涙が伝っていました。
娘のタイラーさんの方はと言うと、アメリカでお留守番中の新婚のご主人にその場で国際電話をかけ、感激のあまり泣きながら、この奇跡のストーリーを彼に実況中継していたほど。
その後は、お蕎麦屋さんご家族とテリー母娘の心のふれあいタイムがひとしきり続き、彼女の記憶のパズルはどんどん埋まっていきました。
また、娘さんから「うちの息子は、今アメリカに仕事の都合で住んでいますが、アメリカの方たちに、こうやってお世話になっているかもしれないから、自分がお役になれる時は、アメリカの方たちに少しでも恩返しをしたいんです。お互い様ですから」という言葉を聞いたテリー母娘は、さらに号泣状態に。
お互い様だから、困っている時は助け合う。人に優しく助けてもらったら、受けた恩は忘れずに、お返しできる機会が後に巡ってきたらきちんと恩を返す。
昔から日本人は、この「義理人情の精神」を最大の美徳と考え大切にしてきました。
人間関係が希薄になってきた、と言われて久しい現代社会においても、まだまだこんな温かい人情ドラマが繰り広げられているわけですから、時代が変わろうと、日本人は義理人情の心を決して失ったわけではないのです。
しかも、その優しい豊かな心は、国境を越え、文化の違う異国の人の心にもちゃんと響いている。私は、その場に居合わせた皆さんの温かい気持ちに包まれ、幸せのおすそ分けをいただいた気分でした。
■ついに当時の家を発見! 感無量! 涙!
お蕎麦屋さんをあとにした私たちは、早速、昔の家があった場所に行ってみました。そこには、すでにテリーのお家は存在せず、新しいお家が建っていました。
そのお宅には広いお庭があり、テリーさんが言っていた通り、学校の建物が見えることが、外からでもわかります。
「この場所に間違いない!」と確信を得た私たちは、お家の方にお話を伺ってみようと、しばらくお家の前でウロウロしていたら、二階のベランダに、お宅の住人らしき女性の姿が。
下からご挨拶すると、玄関に降りてきてくださったので、今までの経緯をすべてお話させていただきましたところ、「よろしかったらお庭に入って、写真を撮っていただいていいですよ」と声をかけてくれたのです。
半世紀の永い時間を経て、子供の頃の大切な思い出がたくさん詰まった、懐かしい場所に辿り着いたテリーさん。
お庭に入った途端、キラキラと目を輝かせ、少女の様な無垢で幸せそうな満面の笑みを浮かべていました。
お庭から見える景色。青く澄み渡った空。穏やかで柔らかい午後の陽射し。その瞬間、その場所で、私たちが目にしたもの、感じたものは、50年間、時が止まったままの状態で存在し続けたはず。
私には、子供時代のテリーさんが、このお庭で無邪気に駆け回っている情景が目に浮かぶようでした。
テリーさんが50年前にタイムトラベルを果たした、奇跡の瞬間。
その場に居合わせた私たち全員の心はひとつにつながり、清らかなそよ風が心の中を吹き抜けていくのを感じました。全員が目に涙を浮かべながら、抱き合って喜び合いました。
■「映画のワンシーンのように美しく感動的な時間」を共有させていただける、通訳ガイドという仕事の醍醐味
こうして、見ず知らずの外国人ゲストが歩んできた、人生の大切な時間、場所を辿り、「点と点を繋げ、線にする」という責任重大なミッションをなんとか無事、遂行することができたわけですが、正直言うと、最初、このリクエストを聞いたとき、まさか、本当に当時の家に辿り着けるとは思っていませんでした。
時間が経過した今、あの日のことを振り返ってみると、テリーさんの家探しをしたあの時間は、本当に存在した時間だったのかな、夢の中の出来事だったのでは?と、今でも思うことがあります。
あの日、まさに「事実は小説より奇なり」的なドラマが繰り広げられたわけです。
そんな国境を越えた人情ドラマに、端役(探偵役)として出演し、ゲストの人生の感動的な瞬間に立ち会わせてもらえる機会に恵まれるのも、通訳ガイドという仕事をしているからこそ!
どんなリクエストが舞い込んでくるか予想もつかない、こんな面白い仕事、一度やったらやめられません。
~人は、人生の中でどこかに置き忘れた、行方不明になった記憶のパズルのピースを探して旅に出ることもある~
心の奥にしまい忘れた、大切な宝箱を開けるお手伝いができた、今回のプレシャスな出会いにも、心から感謝いたします。