「ディーヴァ」という言葉に導かれ知った、往年の歌姫キャスリーン・バトルの復活。CMに使われた「オンブラ・マイ・フ」も魅力的だが、ここで取り上げるのは、1995年に発表されたジャズメンとの共演作『SO MANY STARS』。ジャンルに囚われない、奥行きがあり、それでいて親しみやすい音楽は、まさに唯一無二の存在だ。

僥倖のような作品で、ディーヴァの真価を知る

 先日掲載したセイント・ヴィンセントについての拙稿の中で、女性アーティストについて、「シャーマンかディーヴァか」という個人的な見解を少し述べた。この場合の女性アーティストとは、ポピュラー音楽における存在を念頭に置いていたのだが、同稿の「ディーヴァ」という表現の説明の際、チッチェリア・バルトリやパトリシア・プティボンといった(クラシック音楽における)声楽家の名を引き合いに出したことが、少し引っかかっていた。

 クラシック音楽、特にオペラの世界においては、ディーヴァ、歌姫という形容はポピュラー音楽よりも頻出している。ディーヴァの男性名詞である「ディーヴォ」をその名に冠したグループもいる(彼らが真にディーヴォか否かは意見が分かれるかもしれないが)。オペラというものがしっかり根付いているヨーロッパにおいては、ディーヴァとはつまりソプラノ、プリマドンナのことをまず指すだろう。今ならばさしずめアンナ・ネトレプコやナタリー・デセイあたりだろうか。メゾソプラノのバルトリやバロック音楽を得意とするプティボンは、必ずしもディーヴァの範疇ではないかもしれない。正直言うと、彼女たちの名を挙げたのは完全に筆者個人の好みです、どーもすみません。。。

 そんな風にディーヴァという言葉について考えを巡らしていた時に、つい先日読んだ、音楽ライター・小田島久恵さんのブログ記事を思い出した。その記事とは、14年ぶりに来日したキャスリーン・バトルの記事だった(コンサートの模様については、ぜひ以下のブログの原稿をご一読いただきたい。ディーヴァをめぐる小田島さんの考察も興味深い)。

小田島久恵のクラシック鑑賞日記

 キャスリーン・バトルという名を聞いて、白いドレスに際立つ褐色の肌を思い起こす人も多いに違いない。1980年代後半、ウィスキーのCMにて、自身が歌うヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」とともに、白いドレスを身にまとって歌うバトルの姿がフィーチャーされ、人気を博した。当時はバブル景気の一方で、「メセナ」という言葉が広がりをみせ、企業活動に文化性を持たせるアプローチが数多く試みられた。このCMはそんな時代の雰囲気をよく表していたと、いまとなっては思う。

 後年知ったのは、この映像を監督していたのが実相寺昭雄だったということだ。ウルトラマンシリーズの監督として知られる実相寺は、クラシック音楽にも造詣が深く、オペラの演出なども手がけていた。『ウルトラセブン』や『怪奇大作戦』、後年の乱歩物など、どこか日本的な美意識とシュールさが混淆した映像美が特徴の実相寺作品とは一味違った、スケール感と透明感が印象的なバトルの映像だった。

 バトルのCMが流れていた当時は、彼女のほかジェシー・ノーマンら、アフリカンアメリカンのオペラ歌手の活躍が目立っていた。そんな状況を反映するように、フランスの映画監督ジャン=ジャック・ベネックスの長編デビュー作『ディーバ』では、主人公の青年が偏愛するソプラノ歌手がアフリカンアメリカンとして描かれた。この作品を撮った時のベネックスは、同時期に登場したリュック・ベッソン(『グラン・ブルー』『レオン』)やレオス・カラックス(『汚れた血』『ポン・ヌフの恋人』)以上に、才能を感じさせる存在だった。『ディーバ』は今なお自分にとって最良の映画のひとつである、今回はあえてその名を挙げるだけにしておくが。

 小田島さんのブログを読んで、バトルの歌声を生で聴けなかったことをいくらか口惜しく感じつつ、棚から一枚のCDを引っ張りだした。『SO MANY STARS』、1995年にリリースされた彼女の作品である。レーベルはBunkamura、レコード会社はファンハウスと表記されていて、時代を感じさせる(ファンハウスは現存しない)。

1995年にリリースされた、キャスリーン・バトルの『SO MANY STARS』。現在はアマゾンやApple Musicでダウンロードが可能。

 参加ミュージシャンはグローヴァー・ワシントン・ジュニア、サイラス・チェスナット、ジェームズ・カーター、クリスチャン・マクブライドほか。それらの名前を見てピンとくる人も多いと思うが、ジャズメンとの共演である。それも、グローヴァー・ワシントン・ジュニア以外はポスト・ウィントン(・マルサリス)時代のジャズシーンをリードする当時の若き才能ばかり。なんとも贅沢な組み合わせである。

 本作で歌われているのは、「All the Pretty Little Horses」といった黒人霊歌やケイジャンミュージック、ドヴォルザークの「Going Home(家路)」など子どもにも馴染みがあるような曲の数々。タイトルチューンはセルジオ・メンデスの曲だ。クラシック音楽の歌い手による、余技的なイージーリスニング作と断じる向きもあろうが、繰り広げられる演奏と歌唱は、そんな予断をあっさり裏切ってしまうテンションの高さとクオリティがある。

 中でも、チェスナットのピアノの軽快でエレガントなタッチと、バトルの繊細な質感の声との絡みが、他では得難い美しさを生み出している。マクブライドのベースは適度なグルーヴ感を備えていて、クラシック音楽の歌曲集とは異なる雰囲気を生み出すことに大きく寄与している。さらにシロ・バプティストのパーカッションが、控えめながらも要所要所キラリと光る演奏で、これまた程よい抑揚を生み出している。

 小田島さんも原稿の中で触れていたが、バトルの声は時折「声量に欠ける」といわれることがあった。しかしこのアルバムにおいては、その声こそがジャズメンとのインタープレイにおいて、どこかモーダルで、クールな印象を生み出していた。聴いているうちに、マイルス・ディヴィスの『スケッチ・オブ・スペイン』や『アマンドラ』などが連想された。そう、そういうスタンスの作品なのだ。馴染みあるメロディをきっかけに導かれる奥行きあるサウンド。しかもその芳醇な味わいは、難解なものではなく、素直な感性の持ち主にはたやすく感受し得るものだ。音楽の世界には時折、こうした僥倖ともいえるような作品が出現する。

 初めてその音楽触れた時には、わけもわからず惹かれていたものが、さまざまな音楽に親しむ遍歴を経て少しずつわかってくることがあり、聴くたびごとにその魅力を再認識する。このアルバム、ここでの音楽は自分にとってはそういう存在のひとつといえる。手に入れて以来、折に触れて親しんできた作品だったが、今回もまたそのひとつの機会となった。

 ところで、こうしたジャンル横断型の企画盤は、CDの時代には一度リリースされた後はなかなか再発されず手に入りにくい場合が多かったが、配信の時代となった今、容易にダウンロードできるようになっている。今回作稿にあたって、そうしたことがわかったこともうれしかった。

この記事の執筆者
『エスクァイア日本版』に約15年在籍し、現在は『男の靴雑誌LAST』編集の傍ら、『MEN'S Precious』他で編集者として活動。『エスクァイア日本版』では音楽担当を長年務め、現在もポップスからクラシック音楽まで幅広く渉猟する日々を送っている。