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「漱石忌」とは?由来

■「漱石忌」とは?

近代化・西洋化が急速に進んだ明治、そして大正初期に、近代日本人の生き様を追求した文豪・夏目漱石の忌日(きじつ、命日のこと)を「漱石忌」といいます。「忌日」とは、故人の死亡した日と同じ日付を指し、毎年、あるいは毎月、追善すること。追善とは、死者の冥福を祈り、仏事やその人にちなんだ行事をすることで、「忌日」は「忌辰」(きしん)とも言います。

■「いつ」?

漱石は1916(大正5)年12月9日に亡くなりました。ですから、この日付が「漱石忌」です。長年胃の不調に悩まされ、最期も胃潰瘍による内出血によるものでした。彼が抱えていた精神的なストレスが大きな要因だったといわれています。享年50歳。


ビジネス雑談にも役立つ「漱石」とその「作品」の雑学】

■「作家になるまで」を駆け足で

1867(慶應3)年、大政奉還による江戸幕府の終演と、王政復古の大号令という歴史的な出来事が起こる直前の2月9日に、江戸牛込(現在の東京都新宿区)に誕生。養子に出されたり生家に復籍したりと、複雑な家庭環境で育ったことは、人間の寄る辺なさや孤独感として、のちに作品に描かれることになります。

幼少期から漢籍(漢文で書かれた書籍)や小説に親しみ、学友として正岡子規と出会ったことが文学の道に進むきっかけになりました。

帝国大学(現在の東京大学)在学中には、特待生になったり、東京高等師範学校で英語の教師を務めるなど秀才ぶりを発揮しますが、大学院卒業のころには学問や人生の意味を見失います。卒業後は東京を離れることを選択し、愛媛県尋常中学校の英語教師として松山に1年間赴任。この短い松山生活が漱石の代表作のひとつ『坊っちゃん』を生むことになります。

熊本赴任ののち、文部省からの派遣で英語研究のためイギリスへ留学しますが、ヨーロッパの近代化を目の当たりにして、英語や英文学の研究に意味を見出せなくなりました。そして、学問への厳しい姿勢、経済的な困窮、孤独などによって、2年の留学期間終盤には精神的に追い詰められていきます。

帰国後は東京で再び教師の職に就きますが、学生の不勉強さへの苛立ちや妻との不仲などが相まって精神はさらに衰弱。そんな状態が続くなか、1905(明治38)年に、高浜虚子の依頼で書いた『吾輩は猫である』が虚子が主宰する文芸誌『ホトトギス』に掲載され大評判に。作家としての創作活動を開始しました。

当時の文壇は、「人間を美化せず、欲望や本能などをあるがままに描写しよう」という自然主義が主流でしたが、達観した視点で人生を眺める姿勢で書かれた漱石の作品は「余裕派(高踏派)」と呼ばれました。

■「仮死状態からの生還」で作風が変化

『吾輩は猫である』に続いて発表した『坊っちゃん』や『草枕』などで新進作家としての評価は高まり、漱石のもとには、多くの意欲ある学生が集まるようになります。人気作家となった彼は教師をやめ、朝日新聞社に入社して専属作家になりました。

ある日、修善寺温泉で胃の不調を療養していた漱石は、大量に吐血、約30分ものあいだ仮死状態に陥ります。のちに「修善寺の大患」といわれる経験は、漱石の人間観や死生観に大きく影響を与え、作品にも変化が生まれます。「修善寺の大患」前に書かれた“前期三部作”と呼ばれる『三四郎』『それから』『門』では、自我の確立と挫折の問題に重点が置かれていました。一方、以後の“後期三部作”(『彼岸過迄』『行人』『こころ』)は、人間のエゴイズムや宗教による救いなどを深く問う作品となっています。

■ビジネス雑談の話題にしたい漱石作品

・好評につき長編化した処女作『吾輩は猫である』/1905(明治38)年作

『吾輩は猫である』は、高浜虚子が主宰する文芸雑誌『ホトトギス』に掲載された短編小説です。飼い猫の目を通し、明治のインテリ社会や人間の滑稽さを風刺的に描かれています。飼い主は中学の英語教師、珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)。主人公(猫)が、主人や家族、そして高等遊民(ブルジョア・ニート)たちの言動を観察して、人間の愚劣さや滑稽さ、醜さを痛烈に批判して嘲笑するという趣向。好評を博したため、連載がどんどん伸び、結局翌年8月まで続きました。連載中に書籍化も開始され、上巻は1905年10月に、中巻は1906年11月に、そして下巻は1907年5月に刊行されています。

・森田芳光監督、松田優作さんと藤谷美和子さんで映画化された『それから』/1909(明治42)年作

映像化された漱石作品は数多ありますが、名作との呼び名が高いのは森田芳光監督によって映画化された『それから』(1985年 東映)ではないでしょうか。第9回アカデミー賞を筆頭に、国内の多くの映画賞を受賞したこの作品は、主人公の代助を松田優作さんが、代介の友人・平岡を小林薫さんが、そして平岡の妻で、代助と相愛になる三千代を藤谷美和子さんが好演、「映像美がすばらしい」「恋愛映画の傑作」と大きな話題を呼びました。

三千代のひまわりのような笑顔、暗い室内で耐え忍ぶ姿、両肩をさらして髪を洗うシーン、そしてラムネを飲みながら絞り出すように放った「淋しくっていけないから、また来て頂戴」というセリフーー平成・令和のSNS世代にはどう響くのでしょうか? そんな話題で盛り上がりたい作品です。

・自伝的長編小説『道草』/1915(大正4)年作

里子や養子に出され、また生家に戻される──。自分の意思とは関係なく立場が移り変わる環境で育った漱石の幼少期の経験は、のちの作品にも深い影を落としています。

『道草』は、養家の不和によって生家に戻ったあとも続く養家との関係や、留学から帰国して作家として活動を始めるまでの歩みなど、漱石自身の経験を題材とした作品です。

・最後の長編小説『明暗』/1916(大正5)年作

『明暗』は朝日新聞の連載小説です。1916年5月26日から同年12月14日まで掲載されましたが、漱石病没のため188回までで終了、未完となりました(書籍化はされています)。「エゴイズムをいかに克服するかということを模索した作品」といわれています。

■ドイツ留学を謳歌した鷗外、つらいイギリス留学だった漱石

漱石と同時代の文豪・森鷗外も、政府の命で海外留学を経験したひとりです。鷗外は1884(明治17)年、22歳でドイツへ派遣され、文化摩擦や葛藤を抱えつつも、ベルリンの芸術や社交、恋愛を享受しました。一方、33歳・妻子持ちで渡英した漱石は、ロンドンでの孤独や経済的困窮から神経衰弱に陥ります。対照的な経験ではありましたが、この海外での体験は、双方の文学観や創作の方向性にそれぞれ深く刻まれることになりました。

■漱石はどの時代も高給取りだった!

帝国大学を卒業して学士の称号を得た漱石は、いわゆるエリート。英語教師時代も高給取りでしたが、朝日新聞社の専属作家になったときも凄かった! 漱石の給与の一部を見てみましょう。

・東京高等師範学校の英語教師に就任(1893年):月給37円50銭(当時の物価からすると十分に高給)

・愛媛県尋常中学校の英語教師に就任(1895年):月給80円(校長先生より高かったと伝えられている)

・熊本第五高等学校の英語教師に就任(1896年):月給100円!

・第一高等学校と東京帝国大学の講師に就任(1903年):月給120円!

・朝日新聞社に入社(1907年):月給200円と年2度のボーナス

漱石が在籍していたころの朝日新聞社の給与水準は不明ですが、当時の大卒初任給が大正末期(1026年ごろ)でさえ50〜60円程度だったことをふまえると、1907(明治40年)年に月給200円というのは桁違い。40歳で迎えたこの転身が、漱石の創作に専念できる基盤となりました。。

■お札になった文豪

1984(昭和59)年から2004(平成16)年まで発行された千円紙幣には、漱石の肖像が採用されていましたね。作家ではほかに2000(平成12)年に紫式部が二千円紙幣に、樋口一葉が2004(平成16)年に五千円紙幣になりました。

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文豪に限らず、偉人の没日は「〇〇忌」として、その歩みや思想に静かに思いを寄せる日とされています。12月9日の「漱石忌」は、近代日本の精神を描き続けた夏目漱石の作品世界に触れ、自分の“これから”を考えてみる好機かもしれません。

『吾輩は猫である』の洒脱なユーモアに始まり、『坊っちゃん』の痛快さ、『それから』や『こころ』が投げかける人間のエゴや葛藤──漱石の作品は、時代を超えて私たちの心を揺さぶり、働き方や人間関係、生き方そのものへの示唆を与えてくれます。文豪の忌日をきっかけに、ぜひ気になる一冊を手に取ってみてください。

この記事の執筆者
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参考資料:『デジタル大辞泉』(小学館)/『プレミアムカラー国語便覧』(数研出版)/『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館) :