母と娘の“よい時間”は思ったより短かった
シンガポールを訪れるのは、これが2度目です。前回は、いまから35年ほど前。母と一緒の旅でした。
その旅は、当時アルバイトの原稿書きで稼いでいた私なりの親孝行でもありました。旅費を出したのは私。当時の母が「せっかくならラッフルズに泊まりたいわ」と言ったことを、いまでもよく覚えています。けれど、若かった私のお財布では、そこまでの贅沢はできませんでした。そこで宿泊はあきらめ、せめてもの思いでラッフルズ内のバーへ。名物のシンガポール・スリングを飲み、お土産を買って帰りました。整備された中庭を歩き、ジャカランダやプルメリアがきれいに咲いていたことを憶えています。
それから35年……今回、再びシンガポールを訪れることになり、宿泊先として用意されていたのが「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」でした。
「ママ、私、今度はラッフルズに泊まるよ」
そう報告できたらよかったのですが、残念ながら母は2年前に亡くなり、もういません。あの時、ちょっと無理をしてもラッフルズに泊まればよかった。そう思うのは、母と娘の“よい時間”というのがそんなに長くはない、と今なら知っているからです。20代も半ばになると家族より彼や友人との旅行が優先だったし、30代以降は仕事に明け暮れ、結婚したり、離婚したり(あくまで私の場合)……。気づけば母はすっかり老人になっていて、一緒に旅する機会はなかなか巡ってきませんでした。
母はなぜ「ラッフルズに泊まりたい」と言ったのか
というわけで、シンガポールは私と母が一緒に旅をし、かつ互いに若くて体力もあった、貴重な機会のひとつでした。当時の母は49歳。今の私より若かったんですね。
あのとき、母はなぜ「ラッフルズに泊まりたい」と言ったのでしょう。35年前の私は、その理由を尋ねもしませんでした。贅沢好きな母がまたワガママを言ってる、と思ったくらい。その理由は、今回、「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」に宿泊したことで少しだけ見えてきた気がします。
それを知るには、シンガポールとラッフルズの関係について少し振り返る必要があるので、おつきあいください。まず、シンガポールがマレーシアから分離し、独立した主権国家となったのは1965年8月9日。だから2026年現在、建国から61年です。
一方、ラッフルズは1887年創業だから、今年で139年。つまりホテルは独立国家シンガポールより78年も古い。もちろんシンガポールという都市の歴史自体はそれ以前から続いていますが、シンガポール共和国という国家が誕生するはるか前、英国植民地時代からそこにあり、街の変貌を見続けてきたわけです。
また、私が訪れた35年前(1991年)はラッフルズにとっても特別な時期でした。1987年、創業100周年の日にシンガポールのNational Monumentに指定され、89年から約2年半にわたる初の全面修復に。1915年頃の最盛期の姿を再現する大改修を経て、91年9月16日に華々しく再オープンしています。
つまり、母と訪れたのは、生まれ変わったばかりのラッフルズが世界的に改めて注目されていた時期。それ以前からラッフルズは、単なる高級ホテルではありませんでした。当時の様子を振り返って「エキゾチックな東洋への洗練された玄関口(a sophisticated gateway to the exotic East)」と表現されているように、欧米の裕福な旅行者にとっては、ラッフルズに泊まること自体が一種のステータスだったようです。キップリング、コンラッド、サマセット・モームら文豪も訪れ、「東洋のグランドホテル」のイメージを世界に広めました。英国の文学が大好きで、大学の卒論のテーマにブロンテ姉妹を選んだ母のことですから、きっとラッフルズに一種の憧れを持っていたのでしょう。
そして、今回私が泊まった「ラッフルズ・ホテル・シンガポール」もまた、35年前のラッフルズとまったく同じではありません。2017年から約2年にわたる大規模な修復を経て、2019年に再び扉を開いています。
つまり不思議なことに、母と訪れた35年前も、今回も、私は大改修を終えて新たな時代へ踏み出したラッフルズを訪れていたことになります。では、35年前に母が憧れたラッフルズと、いま私が滞在しているラッフルズは同じなのでしょうか。
もちろん、同じではありません。客室はより快適になり、レストランは時代に合わせて進化し、サービスも変わりました。それでも白亜の回廊を歩き、南国の光が差し込む中庭を眺め、「ロングバー」でシンガポール・スリングをすすっていると、不思議と「ここだった」と思う瞬間がありました。
ラッフルズが守ってきたのは、昔の姿そのものではないのかもしれません。時代に合わせて変わりながらも、この場所でしか味わえない時間や空気、そして旅人を非日常へと誘うグランドホテルとしての精神を、次の時代へ手渡していくこと。それこそが、140年という時間を生き抜くホテルの強さなのでしょう。
今回の初ステイで、35年前、母が「ラッフルズに泊まりたい」と言った理由がようやく少しわかった気がします。願わくば、母と一緒にもう一度、訪れたかったな。
●RAFFLES HOTEL SINGAPOLE
https://www.raffles.com/ja/singapore/

- TEXT :
- 秋山 都さん 文筆家・エディター
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