通りすがりに
通りすがりに、
その瀟洒な邸宅の前で
立ち止まったのは、
ライラックの香りのせいだった。
庭の方から漂ってくる。
けれども、
本当は私自身の遠い記憶から
発しているのかもしれない。
なぜならそれは、
言い知れず懐かしかったから。
偶然の軽やかさの奥には、
しばしば、
未来から振り返られて
初めて気がつく、
運命的なものがある。
不意に、その人の姿が見え、
私は香りの
本当の源に
ようやく気がついた。
(文/平野啓一郎・小説家)
印象主義のタッチで軽やかに繊細に日常を描くオリビア・ジャコベッティの香水
フレデリック マル『アン パッサン』
20年くらい愛用している香りがあります。つけていないと何か物足りない、出かけるときに靴を履くのと同じくらい僕に馴染んだ香り。使い切ったそのオードトワレの瓶は捨てずにいます。1本だけ割ってしまいましたが、一生のうちに何本使うのかなって。
気にいった香りがあると、人生を多少助けてくれる気がするんです。僕が同じものを使い続けているのは、その香りを好きだという人が多いというのもあります。サイン会なんかの後に、「平野さんいい香りがしました」と書かれたりとか(笑)。香りはライフスタイルやアイデンティティと強く結びついているから、自分が好きなだけでなく、好印象をもたれ、自分に似合うということが重要。見えないものだけど、服より個々を表現するものかもしれません。触れてはいないんだけれど、触れているように感じさせるものというか。そういう香りを見つけるまではいろいろ試してみる必要があると思いますけど。
フレデリック マルは、ヨーロッパの本物のラグジュアリーとか、フランスのエレガンスとか、そういうすごく濃厚な部分、五感にアプローチするカルチャーから生まれた香りという印象です。香りがキツイのではなく、密度が高いというか。フランスで食べるお菓子が甘いだけでなく甘さ自体に味があるように、フレデリック マルにも、それぞれの個性の断面が密というか、香りの仕上げに洗練を感じる。調香師が確信をもっていることがわかります。
ファン待望の長編小説『ある男』が書籍化!
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あらすじ
愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。
宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。ある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に「大祐」が全くの別人だったという衝撃の事実がもたらされる……。
里枝が頼れるのは、弁護士の城戸だけだった。
人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。
「大祐」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。
人間存在の根源と、この世界の真実に触れる文学作品。
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- クレジット :
- 撮影/戸田嘉昭(パイルドライバー/静物)、宮澤正明(人物) スタイリスト/櫻井賢之