反ファッションを貫く、したたかなダブルスタンダード

 政治・経済という視点から見れば、世界に対する影響力の衰えが目につくイギリスですが、ことメンズウエアにおいては、世界の宗主国としてほぼ不動の地位を保っています。王室の存在はじめ、様々な理由が考えられますが、その権威を支える最大の根拠のひとつは、メンズスーツのシステムを生んだ国であるという点にあります。

 メンズスーツのシステムは、1666年10月7日、当時のイギリス国王チャールズ2世の衣服改革宣言によって誕生しました。2016年、はスーツ生誕350周年にあたる記念すべき年なのです。そのシステムとは、長袖上着+ヴェスト+下衣+シャツ+タイからなる組み合わせのこと。スーツのシステムが生まれたとはいえ、上着の丈は膝まであるし、下衣はハーフパンツ(当時はブリーチズと呼んでいました)だし、ヒール靴を履きロングヘアのかつらをつけているので、今のスーツとはまったく印象が異なります。画期的だったのは、新アイテムとしてヴェストが導入されたことでした。以後350年間、各構成要素の形を刻々と変えながら、このシステムは連綿と守られ続けています。

 ヴェストが一時的に姿を消したことはあります。第二次世界大戦中とそれに続く物資欠乏の時代です。布地節約のため、ポケットのフラップまでがNGとされました。ヴェストも省略可能とみなされ、つくられなくなったのです。1960年代に再びヴェストは復活し、ツーピーススーツが主流となった現代においても一定の需要を保ち続け、ここ数年はドレスアップブームに乗って、20代、30代の若い男性の間でも人気を高めています。彼らにとっては新鮮なスリーピースかもしれませんが、本来、スーツとはスリーピースで構成される服であり、350年の伝統をもつイギリス発の服であったということは、覚えておきたいものです。

 チャールズ2世の衣服改革宣言ですが、「英国紳士を象徴する服」の起源となったという視点であらためて見直してみると、重要なポイントが3つあることがわかります。まずは、ヴェストという新アイテムを導入したことで、男性の美意識を変える転機をつくったこと。レースやリボンや羽根で飾り立てるほうが「男らしい」とされていた(雄クジャクの発想ですね)騎士道華やかなりし17世紀において、チャールズ2世は、「貴族に倹約を教える服」としてヴェストを導入します。袖や背中など、見えない部分は安価な生地で代用すべしという堅実な服、それがヴェストというペルシア由来の新アイテムでした。以後、高位の男性が着る服は(あくまで前時代比ではありますが)「簡素化」していきます。紳士の服が、堅実・抑制・反装飾という方向へ向かう契機をつくったともいえます。英国紳士のスーツが湛える特権的な贅沢感が、富の誇示とはむしろ逆の、控えめで質実剛健な気配に潜むのは、こんな起源と無縁ではありません。

 ポイント2は、この衣服改革宣言が、アンチ・ファッション宣言であったこと。
「余は新しい衣服を採用することにした。以後、これを変えることはない」と国王は宣言します。トレンドがどう変わろうと、このシステムは変えない。未来永劫にわたりアンチ・ファッションのスリーピーススーツを貫く。これを国王が表明したという史実の重みは大きいでしょう。イギリスのジェントルメンズ・ウエアの魅力の源泉が、多少の流行からは超然としていられるという点にあることは、言うまでもありません。

 ポイントその3は、堅実さの表明として採用されたはずのヴェストが、実はもっとも装飾的なパーツとなる可能性を秘めていた、ダブルスタンダードな服であること。見えない背中は安価な薄地でつくったとしても、正面はボタンと刺繡で飾り立てるというツワモノが出てきたし、その名残りとして、現代の結婚式では刺繡入りの派手なオッドヴェストを見かけます。紳士養成校パブリックスクールの一部の上級生が、特権の証として目立つ柄のヴェストを着用したりもしていますね。この場合のヴェストはむしろ、贅沢な装飾品に近いです。ともすれば退屈になりがちなメンズスーツを長く着続けるために、ときにエキセントリックな楽しみ方を自らに許すパーツとしてヴェストを位置づけてしまった、と見ることもできます。知恵なのか皮肉なのか遊びなのかよくわからない、重い歴史をもつ服との軽やかなつきあい方もまた、したたかなイギリス紳士らしさとして映ります。

 もちろん、ベストことウエストコート(イギリスのテーラーはしばしばウェスカと発音します)は、実用的でありながら装飾を楽しめるパーツとして貴重です。実用という観点から見れば、下着であるシャツや留め具であるベルトやブレイシーズを隠す役割を果たし、ウォームビズに貢献し、体型キープにも役立つという、マルチな機能を果たします。装飾という観点から見れば、ネクタイを立体的にキープできるし、お好みで懐中時計用のアルバートチェーン(フォブチェーン)を飾ることができるうえ、ジャケットとの重ね方次第で奥行きを演出することができます。

 スリーピーススーツの魅力を語るにあたり、表向きの歴史とメリットを滔々と述べていくのもよいのですが、せっかくダブルスタンダードな紳士服の話をいたしましたので、最後にちょっとだけ、裏側のお話を。アイテム数の多いスリーピーススーツは、実は、ツーピースのスーツ以上に、セクシーな服です。上着を脱いだときの、リラックスしながらもくつろぎきっていないヴェスト姿は、女性にひそかなときめきを与えてくれます。

 紳士のみなさまには、そんな女性の胸中などあずかり知らぬという風情で、350年の歴史に敬意を払うフリをしつつ、端正に超然とスリーピーススーツを着こなしていただきたく存じます。

この記事の執筆者
TEXT :
中野香織 服飾史家・エッセイスト
BY :
MEN'S Precious 2016年秋号「この慎み深い格式こそ、紳士たる装いの頂点だ!英国的たたずまいはスリーピーススーツ に宿る」より / 2017.7.6 更新
日本経済新聞、読売新聞ほか多媒体で連載記事を執筆。著書『紳士の名品50』(小学館)、『ダンディズムの系譜 男が憧れた男たち』(新潮選書)ほか多数。『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』(吉川弘文館)6月26日発売。
公式サイト:中野香織オフィシャルサイト
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クレジット :
撮影/小池紀行(パイルドライバー)文/中野香織 構成/矢部克已(UFFIZI MEDIA)