宮内省で西洋料理のコックをしていた島田信治郎氏が、「ごはんに合う洋食を」と明治38年に創業した「ぽん多 本家」。洋食がハレの日のものだった時代から魚のフライやポークソテーといったメニューを提供し、日本で洋食が普及する礎を築いた店である。

日本人らしい丁寧な仕事を一貫して守り抜く

「いい素材といい揚げ油が出合って初めておいしい揚げ物が生まれる。だからラードは自家製にこだわります」と4代目・良彦氏。動物性油脂ならではのコクがあり、それでいて軽い食感を実現しているのが見事だ。

初代の頃はよく旦那衆がやってきた。そして、まとまったお金をポンと置いて「当分の間、これで食べさせて。足りなくなったらまた言って」という調子だったらしい。「ぽん多」を愛した常連の中にはかの白洲次郎もいた。現在、4代目として店を切り盛りする島田良彦氏は言う。「祖母から聞いた話ですが、白洲さんは、店にお見えになるときは、きまってスーツをお召しになられていました。そして、ことさら時間に厳しかった。遅刻を許さず、食べ終わったらさっさと帰られる。『人様のお宅にお邪魔しているのだから』とおっしゃった。恐らく店側の都合をきちんと尊重してくださる方だったのでしょう」

そんな白洲は「ぽん多」のカツレツを好み、必ず注文した。明治期に西洋から伝わってきた仔牛のカツレツ、いわゆるコートレットやウィンナーシュニッツェルといった料理を豚肉にアレンジしたものだが、その調理法は実に独特だ。ロースについた脂身を下ごしらえの段階で取り除き、ロースの芯の部分のみを使う。トンカツの良し悪しを語る際に、脂の甘みや質が引き合いに出されることがあるが、それと「ぽん多」のカツレツは次元を異にしているのだ。

「脂と赤身では揚がる時間に差があり、一緒にするとどうしても赤身のほうが揚がりすぎてしまいます。そこでうちでは脂身を取り除いて赤身だけを使います。そして、ラードで揚げることでコクを足しています」。贅沢で手間のかかることである。だが、これこそが現在に至るまで「ぽん多」で脈々と受け継がれてきたスタイルなのだ。「譲れないこと」はほかにもある。

「ぽん多」の揚げ油はなんと自家製。削ぎ落とした脂身を鍋でぐらぐらと炊いて自家製ラードをつくり、それでカツレツを揚げるのだ。しかもいきなり170℃で揚げるようなことはしない。箸に伝わるラードの粘度でその温度を探り、揚げどきを見極める。そして、衣が肉から離れないようにじっくり揚げるべく、低温から入れて優しく泳がせる。実際に見ていると、この間、良彦氏は沈黙を守っていた。それに対して突っ込みを入れると、氏からはこんな答えが返ってきた。

「お客様はおいしい料理を食べるためにうちにいらっしゃいます。だったらここで集中しなくてどこで集中するのでしょう。先代にもよくそう諭されました」

そうして揚がったカツレツは端正で美しかった。断面はほのかな桃色。口にすると、甘みが感じられて、豚肉の香りが鼻からすっと抜けていく。キャベツの食感もいい。聞けば、芯を丁寧に取り除くのはもちろん、葉脈に対して垂直に切っているそうだ。

カツレツがこんなに繊細な料理だとは思わなかった。その感想をストレートに伝えると良彦氏は控えめな口調で言った。

「何が正解かはわかりません。ただ、初代はこうすることがお客様にカツレツをおいしく召し上がっていただく最良の方法だと考え、それが代々守られてきました。これが『ぽん多』の一貫した仕事なのです」

そうかといってかたくななのではない。かつての品書きには値段が書かれていなかったが、それでは今の人たちは注文しづらかろうと改めた。日本人の生活習慣の変化に伴って椅子席を増やした。クレジットカードも使えるようにした。今をしなやかに受け入れながら、仕事は徹底的に一貫し続ける。そんな「ぽん多」のありようを見ていたら、白洲が遺した名言がふと浮かんだ。

「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人に嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない」

だれのためにおいしいものをつくるのか。そのために何を為すのか。物事の原理原則を重んじた白洲が「ぽん多」を好んだ理由がわかるようであった。

白洲次郎が通った東京・上野「ぽん多 本家」

※2019年秋号掲載時の情報です。営業時間などの詳細は、店舗HPなどでご確認ください。 

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MEN'S Precious編集部 
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MEN'S Precious2019年秋号より
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PHOTO :
木村文吾
EDIT :
甘利美緒(