アーネスト・ヘミングウェイほど、「さすらい」続けた作家はいないのではないだろうか。新聞記者を経てヨーロッパの戦場を駆け巡り、アメリカに帰国。のちにキューバの首都、ハバナに滞在した。そして、彼の旅と相棒として腕に鈍く輝いていたのが、「バブルバック」と呼ばれる、ロレックスのオイスター・パーペチュアルだった。今も高い人気を誇る名機を、ヘミングウェイが愛した理由とは−–。1920〜30年代の時代背景を通じて解き明かそう。
孤高を目指して
サファリでアメーバ赤痢にかかり、小型複葉機でナイロビに搬送される途中、眼下には雪を抱くキリマンジャロの白峰が広がった。その瞬間、はるか上空からの視線は山頂に降り立ち、頂きを目指して絶命した豹のそれに重なったのだろう。短編「キリマンジャロの雪」はこうした視座の変化から生まれた。
アーネスト・ヘミングウェイ。生涯を旅し、さすらいから数々の名作を生み出した作家。赤十字傷兵運搬運転手としてイタリアに行った経験から「武器よさらば」が生まれ、スペインで目の当たりにした闘牛の熱狂が「日はまた昇る」につながった。
日常から逸脱し、移動することはヘミングウェイの創作に欠くべからざるものであり、旅はその象徴だった。「小説は作るものであり、自分が作り出すものは経験に根ざしている。真の小説は、自分が知っていること、見たもの、身につけたもののすべてから書かなければならないのだ」(『パパ・ヘミングウェイ』)と自らも友人に語っている。
長い都会暮らしから自然への渇望もあったのだろう。1930年代、ヘミングウェイは喧騒のパリを離れ、キーウエストに居を構えた。海辺での暮らしとともに、さらに好奇心はアフリカへと向かった。そして生まれたのが「キリマンジャロの雪」である。
しかしこの時期はヘミングウェイにとって葛藤の時代ともいわれている。というのも雑誌への寄稿はあったものの、まとまった作品を発表することはなく、長編「誰がために鐘は鳴る」の上梓まで10年を待たなければならなかったからだ。
だがはたしてその評価は正しいだろうか。
1920年代から'30年代はマシンエイジと呼ばれ、技術革新の下、機械が持つダイナミズムやスピード感が輝かしい未来の象徴となり、人々の生活、文化、芸術などさまざまな側面で変革をもたらした。なかでも鉄道、船舶、自動車、航空機といった交通手段が発達し、より速く、より遠くへ人々を運んだ。
世界的な観光ブームとともに、旅による異文化との出会いは人々を虜にした。旅する作家を未開の大陸アフリカへと向かわせたのもそうした時代の空気があったからかもしれない。まさに時代はヘミングウェイに追いついたのである。
そしてより活動的になった人々の生活を取り巻く道具も進化を遂げる。腕時計もそのひとつ。
腕時計の普及は、第一次大戦時に兵士たちが懐中時計を改良しストラップで腕に巻くことで、戦場でいちいち時計を取り出して時間を確認する手間を省いたことからといわれる。戦後、利便性と時計を腕につけるという新時代のスタイルは瞬く間に広まり、1930年代の半ばには腕時計は懐中時計を凌駕した。その牽引となったのが1933年にロレックスが発表した名作「オイスター・パーペチュアル」、通称「バブルバック」である。
ロレックスは1926年に画期的な完全防水機構を発明し、牡蛎が堅く殻を閉じることから「オイスターケース」と名付けた。そしてこの堅牢な鎧のなかに、時計史初の実用化である自動巻き式ムーブメントを搭載したのである。これらは瞬時に日付の変わるデイトジャスト機構と並び、ロレックスの3大発明と呼ばれている。
腕の振幅によってエネルギーを貯え、永久(パーペチュアル)に動き続ける「バブルバック」は人と一体化し、新たな生命を宿したのだ。手巻き式のようにゼンマイを巻き上げる必要がないため、トラブルの原因になるリュウズ操作は極力省かれ、信頼性も向上した。タフネスな実用性と先取の精神はヘミングウェイの嗜好や生き方にも合致したのだろう。旅の相棒となり、愛用する姿は多く残されている。
そうした時代の変化を身を持って感じながら、ヘミングウェイが目指したのは移ろいゆく社会の価値観や人々の意識に抗い、自らの精神性をより高みへと確立することではなかったか。
旅は経験を得るとともに、非日常に身を投じることで自身を見つめ直すことでもある。激変する時代のなかで、ヘミングウェイはあらためてそれを意識し、さすらう意味を知った。そう考えれば1930年代はむしろ実り多い豊饒の時期に思えてくるではないか。だからこそ「キリマンジャロの雪」は深い感動を呼ぶ。「干からびて凍りついた、一頭の豹の屍が横たわっている。それほど高いところで、豹が何を求めていたのか、説明しえた者は一人もいない」(『キリマンジャロの雪』)
標高6000mを超える、アフリカの最高峰で息絶えた豹は最後に神々しいまでに白く輝く頂きを見た。それは彷徨を続ける作家が目指した孤高の精神そのものだ。そしてその腕元で「バブルバック」は静かに時を刻み続けたのである。
- TEXT :
- 柴田 充 時計ジャーナリスト
- BY :
- MEN'S Precious2014年夏号 飽くなきさすらいアーネスト・ヘミングウェイより