香港は現代に残された数少ない魔都である。そのイメージが長い間頭から抜けなかった。

 20世紀初頭には世界の4分の一を支配していたブリティッシュ・エンパイア、1930年代の狂乱の上海、その2つの歴史を分断することなく、自分の中に取り込み、現代の物質的主義な繁栄を享受している都市。東洋と西洋が混在し、ダイナミックなミックスカルチャーを生んだアジアの宝石。

 香港を代表するホテル、マンダリン オリエンタル 香港の創業は1963年。

 かつて観光・商業の中心地であった九龍島に対し、政治・経済の中心地であった香港島で最も古い歴史を持つ。

 ヴィクトリア湾を一望に眺めるホテルは英国企業ジャーディン・マセソン社の本社ビル跡にマンダリン・ホテルとして建築され、建設当時、香港で最高層を誇った。

 ジャーディン・マセソン社の前身は東インド会社であり、現在も香港にヘッドオフィスを置く世界最大級の国際コングロマリットだ。マンダリン オリエンタル ホテルグループも同社の傘下となっている。彼らが総力を挙げ、香港で最上級、グループ最初のホテルとして建設したのがマンダリン・ホテルである。

 このホテルが位置する中環(セントラル)は金融の中心部で、香港上海銀行(HSBC)の社屋もこの近くだ。そもそも香港上海銀行自体、ジャーディン・マセソン社を筆頭に、香港にある英国企業の資金を本国へ送金するために設立された歴史がある。HSBCばかりではなく、この一帯は今でも多くの銀行が集まる金融街だ。マンダリン オリエンタル 香港は古くからこの界隈の政治、経済の業務に関わる紳士の社交場の役割を果たし、それは今でも変わっていない。 

 こうした経緯から、このホテルには香港が背負ってきた東西の折衷文化が色濃く反映されている。黒い大理石に囲まれたロビーに足を踏み入れた瞬間から、ゲストはこの歴史を感じるにちがいない。老舗のホテルでさえ改装後に独自の魅力を失ってしまうことが多いが、ここではすべての客室が改装され、最新鋭の設備が備わっているにも拘わらず、60年代の映画の中にいるようなオリジナルのインテリアはそのまま保たれている。それがこのホテルに男性的な落ち着きと独特の魅力を与えている。

 館内にはミシュランの星を持つ3軒のレストランを含む、10軒のレストランとバーがあり、中華にしろ、フレンチにしろ、どんな食通の要求にも応えられると思うが、香港の滞在中、一度は立ち寄りたいのが「ザ・チネリー」だ。

マンダリン オリエンタル 香港にあるバー「ザ・リネリー」の店内。60年代の香港にタイムスリップしたような気分に浸れる。©Ken Wu (Lightseed Studio)
マンダリン オリエンタル 香港にあるバー「ザ・リネリー」の店内。60年代の香港にタイムスリップしたような気分に浸れる。©Ken Wu (Lightseed Studio)

 このバーのスツールに腰掛けていると、自分が1960年代の香港にタイムスリップしたような気持ちになる。ザ・チネリーは1963年、ホテルの開業と同時にオープン。50年を超えるホテルの歴史の中で、いつも変わらずそこに在る場所だ。

 チネリーの名は19世紀の英国人の風景画家ジョージ・チネリーに因んだもので、香港とマカオに住み、多くの風景画を残した。店内にも彼の絵が飾られている。

 布張りの肘掛椅子、グリーンのレザーベンチ、マホガニーテーブル、周囲を囲んだウッドパネルといったインテリアは、当初はプライベートのジェントルメンズ・クラブとして作られたことに由来するものだろう。事実、1990年まで女性は立ち入ることが許されなかった。ランチとディナーのみオープンし、日曜日はクローズする。これもジェントルメンズ・クラブの伝統に則っているらしい。

CAPこのバーで有名なものは109種類以上という世界最大のシングルモルトウィスキーのコレクション、そして英国の伝統に倣ったシルバー・タンカード(シルバー製ジョッキ)で提供されるドラフトビール。©Ken Wu (Lightseed Studio)
CAPこのバーで有名なものは109種類以上という世界最大のシングルモルトウィスキーのコレクション、そして英国の伝統に倣ったシルバー・タンカード(シルバー製ジョッキ)で提供されるドラフトビール。©Ken Wu (Lightseed Studio)

 バーテンダーのクリストファー・チュー氏は1994年に入社。ここが彼にとって最初で唯一のホテルであり、23年間ダイニング部門を担当。入社当時はクリッパーラウンジで働き、マンダリン グリル+バーを経て、ザ・チネリーに移り、19年間、ここでバーテンダーとして働いている。

「19年も働いていると多くのゲストはお客様ではなくて友人のようです。中でも忘れられないのは、香港在住の英国人のお客様で足繁く通ってくださった方のことです。いつも週に1、2回はお見えになっていたので、親しい友人のようになっていたのです。10年前に英国に戻られて、それ以来お目にかかっていなかったのですが、昨年、3日間の香港出張の際にお見えになりました。そして10年前とまったく同じものを注文されたのです。ローストビーフにうちのシグネチャーのシルバー・タンカードに入ったドラフトビールです。長年経っても、ここが未だにお客様のお気に入りだと知って非常に嬉しく思いました」

「良いバーテンダーの条件はお客様と理解すること、そして真心を持って接することですね」と語るクリストファー。©Ken Wu (Lightseed Studio)
「良いバーテンダーの条件はお客様と理解すること、そして真心を持って接することですね」と語るクリストファー。©Ken Wu (Lightseed Studio)

 ここのもうひとつの名物は伝統的な英国料理で、クリストファーのお薦めはトマト、バター、ヨーグルト、アロマティック・スパイスのチキン・カレーにバスマーティ・ライスを添えたチキン・ティッカや、ラムのひき肉にマッシュドポテトとチェダーチーズをのせてこんがりと焼いたシェファーズ・パイだ。1960年代の香港で最初に伝統的な英国料理を提供したレストランのひとつでもあり、その味を懐かしんで訪れる客も多いという。

 最後にクリストファーが作ってくれたのはシグネチャーカクテルのジュニパー・スリング。いかにも魔都香港に相応しいが、見た目のピンク色に惑わされてはいけない。ピンクは赤ワインから作られるデュボネによるもので、甘ったるさは微塵もない。ベースとなっているのはジンの原型とされる麦芽の香りの強いジュネヴァに、レモンジュース、ジュニパー・ベリーズ、セルリー&レモン・ビタースが加えられている。飲み口の爽やかさ、ジュニパーのハーブやスパイスがアクセントとなっていて、蒸し暑い1日の終わりにはことさら新鮮に感じられることだろう。香港で愛されてきた理由がよくわかる。

英国では夏のカクテルによくきゅうり(キューカンバー)が使われる。ジュニパー・スリングの飾りにキューカンバーを使うのも英国風だ。©Ken Wu (Lightseed Studio)
英国では夏のカクテルによくきゅうり(キューカンバー)が使われる。ジュニパー・スリングの飾りにキューカンバーを使うのも英国風だ。©Ken Wu (Lightseed Studio)

 歴史ある都市には、必ずその都市を象徴するホテルがある。

 一方で、現代は偉大なるグローバリゼーションのおかげで、地球のどこにいても同じものが手に入る。世界は良くも悪くも均一化している。

 次々と新しく建築されるコンテンポラリーなホテルはひたすら快適で素晴らしい。しかし、朝起きた時、自分がどこにいるのかわからない感覚に襲われることもしばしばだ。

 今、敢えて旅に出かけるならば、その都市ならではの個性と歴史を味わえる場所に泊まりたい。そう思う人が多いのも不思議ではない。

 マンダリン オリエンタル 香港には、世界でこのホテルにしかない唯一無二の魅力がある。ザ・チネリーもそのひとつである。

 今回も長くなってきたので、このホテルならではの過ごし方、後編に続きます。

Special thanks to Jasper Cheung

Mandarin Oriental Hong Kong
マンダリン オリエンタル 香港
この記事の執筆者
ジャーナリスト。イギリスとイタリアを中心にヨーロッパの魅力をクラフツマンシップと文化の視点から紹介。メンズスタイルに関する記事を雑誌中心とする媒体に執筆している。著作『サヴィル・ロウ』『ビスポーク・スタイル』『チャーチル150の名言』等。
公式サイト:Gentlemen's Style
PHOTO :
Ken Wu (Lightseed Studio)
EDIT&WRITING :
Yoshimi Hasegawa