「青」は、いつの時代も男たちを虜にしてきた。ファッションにおいてその代表はネイビースーツやブルーデニムだが、ひとえに青といってもトーンはさまざまであり、その起源は自然の中にある。ここでは、小説『空の青み』を通して、青の持つ意味を探る。

 空の青みを見つめていると、その果てしなさに眩暈を覚える。それは宇宙の色だ。昼の光に照らされ、遮られ、果てしなき星空はその剝き出しの姿を現すことはないが、それでもそこに潜在し、「青み」という徴候を発する。だからその青は、昼のなかに開く夜であり、そして逆に星をちりばめた夜空は、その深遠な闇は、深みを増した昼の青である。ジョルジュ・バタイユは、その色彩を題名とした小説『空の青み』を執筆している。

 バタイユは、難解な思想書を執筆するかたわら、いくつもの物語を残した。『眼球譚』『マダム・エドワルダ』『死者』……それらは性と死、生の汚穢に満ちた危険な書物であり、『空の青み』もその一つである。

 1935年に執筆されたこの小説は、スペイン内戦と第二次世界大戦が迫り来る時代を背景として、主人公と複数の女性の関係、歓喜と苦悩に満ちた淫蕩、死の影を帯びた病、いくつもの奇妙な悪夢、旅(ロンドン、ウィーン、パリ、バルセロナ、トリーア、フランクフルト……)、そして戦争という破局の予兆を描き出している。物語の語り手である主人公は「トロップマン」と呼ばれるが、この名は有名な殺人犯と同名であり、また、処女小説『眼球譚』に先立って、バタイユが執筆して破棄した物語『W・C』の筆名であった(『空の青み』の「序章」は、『W・C』の残存物を元にしているようだ)。

 主人公の「私」は、既婚者であるが妻は不在であり、彼を巡っておもに三人の女性が現れる。淫奔で、美しく裕福なダーティ、やはり裕福で魅力的なクセニー、そして「凶鳥」のような、醜く質素な、非主流派の共産主義者ラザール。主人公がもっとも欲望しているのはダーティだが、彼は彼女に対しては不能である。彼が告白するところによれば、彼には死体愛の性癖があり……。

 こうして繰り広げられる物語を読み終えた読者は、題名と物語の関係を見出すことができず、おそらく当惑するだろう。本文中に「空の青み」という言葉は一度しか出てこない。それは、「第2部」後半の「空の青み」と題された章の一文である。夜のバルセロナで、「私」は星空を見つめながら回想に陥り、太陽、その赤、爆発、流血、光を想起し、真夜中の星空に真昼の空の青みが重なる。「もはや私の両眼は、私の上で現に輝く星々ではなく、真昼の空の青みに見み惚とれていた。私は両眼を閉じて、その輝かしい青に見惚れていた」(『空の青み』)。

 そのとき、夜と昼、闇と光、両極的なものが目眩く結晶を形成する。青さは、その徴候なのだ。そして、言葉としてここで一度だけ顕在化した空の青みは、実はこの物語に潜在し、その最後の山場において再びかいま見えるだろう。

 序文で語られるように、バタイユはこの小説を1935年に執筆したが、そのときには刊行がかなわず、この本は1957年になって初めて出版された。そして彼は、刊行時に少なからぬ改稿を行っている。もっとも重要なのは構成上の変更である。そもそも『空の青み』は、異質な要素で構成されている。

 刊行版は「序文」「序章」「第1部」「第2部」によって成り立っている(草稿には章題はあるものの、以上の区分は存在しない)。序章(1945年に「ダーティ」と題して単独で刊行)と第2部は小説的な文体で執筆され、そこには説話的な連続性があるが、第1部はイタリックで印刷されていて(序文も同様である)、前後の説話的な連続性を断ち切る異質な文体で執筆されている。

 それはまるで挿入された悪夢のようだが、この第1部は、実は草稿では「空の青み」と題されたアフォリズム的な散文であり、内容が刊行版と大きく異なっていた。この「空の青み」は、若干の加筆を経て、1936年にシュルレアリスムの雑誌『ミノトール』に掲載される(その後、1943年には『内的体験』に収められた)。そこでは、「アンドレ・マッソンとジョルジュ・バタイユによる〈モンセラート〉」という題名の下で、画家マッソンの詩「モンセラートの高みから」と彼の二枚の絵とともに掲載された。

 その「モンセラート」とは、バルセロナ郊外に位置する山であり、マッソンはその山頂部で夜中に道に迷い、眼下の闇と星降る夜空、二つの深淵のあいだで宙吊りとなり、低みと高みの二重の眩暈のなかで「空へと墜落」するような恍惚の体験をした。雑誌掲載時に添えられたバタイユの解説文によれば、「空の青み」は、マッソンのこの神秘的な体験と密接な関係を結んでいる。「空の青み」においては、バタイユがʼ20年代後半に熟考した主題、つまり太陽を見つめる頭頂部の眼(松果腺の眼)が現れ、本文中に「空の青み」という言葉はみられないが、その代わりにマッソンの体験を思わせる「空の空虚への悲痛な墜落」が語られていた。

 そして小説『空の青み』は、トサ・デ・マル(スペインのカタルーニャ州)にあったマッソン宅で書き上げられ、その冒頭には彼への献辞が記されているが、その物語においてもまた、草稿でも刊行版でも、物語終盤の重要な場面で、大空への落下が描き出されているのだ。

 第2部の最終章「死者たちの日」において、主人公はダーティと初めて肉体的に結ばれる。夜のただ中、彼らの下方には墓地があり、そこには無数のロウソクが灯ともっている。それらは死が放つ微光だ。そして、暗闇に瞬またたくそれらの光は、まるで星屑のようだ。つまり彼らの下には果てしなき星空が開かれている。そこで彼らは裸になり、泥にまみれながら、物質の深みで、死と性の禁忌を犯しながら結ばれる。そのとき彼らは、危うく斜面から滑り落ち、墜落しそうになる。夜のなかへと、空の空虚へと。空と大地、上と下、生と死、男と女が両極的な結晶となって上空へと墜落するとき、果てしなきその漆黒の夜空は、同時に広がりゆく深い空の青みとなるだろう。

文・江澤健一郎/フランス文学者。博士(文学)。1967年、埼玉県生まれ。立教大学ほか非常勤講師。著書に『バタイユ︱︱呪われた思想家』(河出書房新社)ほか。訳書にバタイユ『ドキュマン』(河出文庫)、ディディ=ユベルマン『イメージの前で︱︱美術史の目的への問い』(法政大学出版局)、ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(共訳、法政大学出版局)ほか。

ジョルジュ・バタイユ/1897年フランス、ピュイ=ド・ドーム県ビヨン生まれ。1922年に国立古文書学校を卒業後、国立図書館に司書として勤務。1928年には偽名で小説『眼球譚』を出版する。その翌年、横断的な雑誌『ドキュマン』に参画。以降小説のみならず、神秘主義的なエッセイ、ニーチェやヘーゲルの影響を受けた哲学性を伴う論考など多彩な文筆活動を展開する。その存在は、モーリス・ブランショ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダらフランスの哲学者に多大な影響を与えた。1962年没。
この記事の執筆者
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MEN'S Precious編集部 
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MEN'S Precious2015年春号 男たちを魅了した「青」の記憶
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アートワーク/FRANERO(HUESPACE) 構成/菅原幸裕
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