ウィーン時代の初期作品とロンドンでの試行錯誤

展覧会では、年代を追って、ルーシー・リーの作品の変遷を辿ります。

20世紀初頭のウィーンで、ユダヤ系の非常に裕福な家に生まれたルーシー・リー。ウィーン工芸美術学校で陶芸を学びました。当時のウィーンでは、絵画や彫刻といったいわゆる純粋美術だけではなく、日用品を通して美意識を表現しようとしたウィーン工房のアーティストたちが活躍。ルーシーもそんな時代の空気を吸収して、装飾性の高いデザインのうつわを制作しています。

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複数の色に塗り分けられた装飾性の高さが魅力。ルーシー・リー《鉢》 1926年頃 個人蔵 撮影/野村知也

戦争の足音が近づく1938年、オーストリアがドイツに併合され、ルーシーは、ナチスの迫害から逃れるためにロンドンへ渡ります。ここで、イギリス陶芸界の中心的存在であったバーナード・リーチに作品を見せる機会を得るのですが、ろくろを使って薄く引き上げられたルーシーのうつわを見たリーチは「薄すぎて陶器らしくない」と批判。それを受け、ルーシーはしばらくリーチ風の厚手で素朴な作品を制作します。

しかし、それも少しの間のこと。後に制作のパートナーにもなる彫刻家志望の青年、ハンス・コパーとの出合い、ルーシーは本来の繊細なうつわの世界を再び追求するようになります。

展覧会では、当時から日本でも人気の高かったリーチ作品も並びます。

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渡英後の作品。ルーシー・リー《黄釉鉢》 1958年頃 井内コレクション(国立工芸館寄託) 撮影/品野 塁
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ルーシー・リー《壺》 1965年頃 京都国立近代美術館蔵

東洋との出合いによって表現の幅が広がって

この展覧会では、「ヨーロッパと日本、双方の視点からルーシー・リーの作品を紐解く」ことにも挑戦しています。リーチは、民藝運動を推進した柳宗悦とも関係が深く、当時のイギリスでは東洋陶磁に注目が集まっていました。陶芸家の濱田庄司もリーチと交流があり、こうした洋の東西が入り混じる背景の元で、ルーシーも表現の幅を広げていきます。

たとえば、器の表面をヘラやカンナなどで均等に掻き取っていく「鎬文」という手法が印象的な《白釉鎬文花瓶》。下から立ち上るような、首の細いしなやかなフォルムとの組み合わせが新鮮です。

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ルーシー・リー《白釉鎬文花瓶》 1976年頃 国立工芸館蔵 撮影/品野 塁
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ルーシー・リー《ブロンズ釉花器》 1980年頃 井内コレクション(国立工芸館寄託) 撮影/品野 塁
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ルーシー・リー《スパイラル文花瓶》 1980年頃 国立工芸館蔵 撮影/エス・アンド・ティ フォト

1970年以降に制作された鉢と花器を紹介する展覧会の終章では、現在、私たちがよく知るルーシー・リー、つまり「小さな高台」「大きく広がる口縁」「ろくろを使って薄く引き上げられることで生まれる流れるようなフォルム」「上品でドラマティックな色彩」をもつ作品がたっぷり登場。ピンクの鉢が並ぶ展示には心が浮き立つよう!

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ルーシー・リー《青釉鉢》 1978年 国立工芸館蔵 撮影/アローアートワークス
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ルーシー・リー《白釉ピンク線文鉢》 1984年頃 井内コレクション(国立工芸館寄託) 撮影/野村知也
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展示風景

展覧会の冒頭で流している資料映像や、各所に展示されたルーシーの写真にも注目を。ウィーンからロンドンへ、戦争の影響で故郷を離れることになっても、陶芸の道を一途に歩き続けたルーシー。「新しい作品は新たな出発。私はいつも生徒です」「ろくろを回しながら死にたい」――。その言葉からは、純粋で、真っ直ぐな人柄が伝わってきます。

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1955年頃、50代前半のルーシー。美しい!

2025年はルーシー・リー没後30年。今もなお根強い人気を誇る彼女の奥深い魅力に触れてください。

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旧陸軍第九師団司令部庁舎(2F階段ホール) 写真/太田拓実

明治後期に建てられ、1997年に国の登録有形文化財に登録された木造の旧陸軍施設「旧陸軍第九師団司令部庁舎」と「旧陸軍金沢偕行社」を移築・活用した建築も見どころ。

Information

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WRITING :
剣持亜弥