80代の大先輩に聞きました「働き続けるということ」

「働く」ことと、「働き続ける」こと。年齢を重ね、キャリアを積んできたプレシャス世代にとって、その言葉の意味合いはまったく違ってくるはずです。

人生の折り返し地点がどんどん後ろ倒しになっている今、80歳を越え、現役で活躍する御三方に、「働き続ける」をテーマにインタビューを敢行しました。

今回は、字幕翻訳家の第一人者としてご活躍の戸田奈津子さんにお話しをうかがいました。

「映画が好き。それだけです。自分はどんな人間で、何が好きで、何をやりたいのか。それがわかれば、迷うことなんてないはずです」字幕翻訳家・戸田奈津子さん(89歳) 

字幕翻訳家の戸田奈津子さん
 

映画に夢中、字幕のおもしろさに魅せられた

『E.T.』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『トップガン』『レインマン』『タイタニック』『ミッション:インポッシブル』『パイレーツ・オブ・カリビアン』『ハリー・ポッター』『007』…etc.

あの名作、あの大ヒット映画で必ずといっていいほど見かける “字幕 戸田奈津子” というクレジット。これまで手掛けた作品は2000本近く。89歳にして今なお現役で活躍する字幕翻訳界のレジェンド、戸田奈津子さんに「働き続ける」ことについて聞いてみた。

「40歳で本格的に字幕翻訳者としてデビューしましたから、この仕事を続けてもうすぐ50年近くになります。仕事を辞めたいと思ったこと? ないない! あるわけない。かすめたこともありません。だって、これしかやりたいことがないんですから。飽きたと感じたこともないですね。始めた頃と同じ気持ちで、今も毎日パソコンに向かっています。大好きな仕事です」と笑う。

戦後間もない東京で幼い日々を過ごした戸田さん。小学生のときに洋画と出合いカルチャーショックを受ける。

「キラキラした夢のような世界に夢中になりました。娯楽が少なかった時代、文化的なものや美しいものにみんなが飢えていたんだと思います。特に高校時代に観た『第三の男』にはシビれました。50回以上は観たという感じ。何度も観ているうちに英語でなんと言っているのか気になり、次に原文と字幕の関係が気になって。なるほど、字幕は直訳ではなくセリフのエッセンスを日本語に置き換える仕事なんだと知ったときは感動しました。

このとき、漠然と字幕翻訳の仕事がしたいと思ったんです。とはいえ、今みたいにパソコンでなんでも調べられる時代じゃありません。どうしたら字幕翻訳者になれるのかわからず、唯一の手掛かりは、画面にクレジットされていた “日本版字幕 清水俊二” というお名前でした。電話帳で住所を調べ、大学生のとき、清水先生に『字幕翻訳の仕事がしたいのですが』というお手紙を書いたんです。大胆ですよね(笑)。先生はお会いしてくださいましたが、『困ったな、難しい世界だから』とおっしゃって。がっかりした気持ちと、あきらめないぞという思いと両方を抱いて帰りました」

あとになって、清水先生の言う「難しい」の言葉の意味を理解したという戸田さん。これだけ多くの作品が海外からやってきても、字幕翻訳の仕事を手掛けられるのは十数人。狭き門であると同時に、字幕翻訳の技術そのものも難しい。もちろん、ノウハウを教えてくれる人などいない時代だった。

「大学卒業後は、縁あって生命保険会社の社長秘書に。得意の英語は生かせたものの、とにかく退屈で(笑)。一年半で辞め、今でいうフリーターに。幸い、翻訳の仕事は次々にあって、通信社や広告代理店の仕事をしていました」

「夢を追うには覚悟が必要。ダメな可能性もあると腹をくくることも大切です」

字幕翻訳家の戸田奈津子さん
 

40歳でやっと字幕翻訳者デビュー。

「普通の人と比べて20年もキャリアスタートが遅れているわけです。究極の狭き門ですから、最初から腹をくくっていました。夢が叶う可能性は五分五分。ギャンブルです。思い続ければいつか夢は叶う、というのはちょっと甘い。ダメな場合も半分あることを認識したうえで目指しました。かといって、歯を食いしばって耐えた苦難の20年というわけじゃない。そんな性格じゃないんです。楽しいこともしたし、英語を生かす仕事は次から次にあったからお金に困ったことはなかった。映画の仕事(あらすじづくりや翻訳、通訳など)にも携わり、結果的には字幕翻訳の仕事ともつながったわけですが、強い覚悟をもって夢を追いました」

この仕事が好き 迷ったことは一度もない

転機となったのは、1976年、『ゴッドファーザー』シリーズで多くの映画賞を受賞しているフランシス・F・コッポラ監督との出会い。

「来日の際、通訳兼ガイドとして、一緒にさまざまな場所を巡りました。あとになって知りましたが、『地獄の黙示録』の字幕担当者を決める際、コッポラ監督が “彼女は撮影現場でずっと話を聞いていたし、字幕をやらせてはどうか” と推薦してくださったそうです。大作を新人に任せることは映画会社も賭けだったはず。感謝しかありません」

『地獄の黙示録』は大ヒット。これを機に、各社から仕事が舞い込むことに。

「以降も字幕翻訳と通訳の二足のわらじ生活。おかげで、たくさんの監督や出演者とお付き合いするきっかけになりました。貴重な経験です」

映画一本につき、字幕翻訳作業にかかるのは1週間から10日ほど。年間約50作品を担当していたという。

「もともと仕事は早いほうで、締切に遅れたことは一度もありません。だいたい8時くらいからパソコンに向かい、17時には終了。食事は軽く2回、おやつは食べず、夜は1、2杯お酒を飲む程度。健康面で気をつけていることは特になく、しいていえばしっかり寝ることくらい。運動は大嫌いだし、散歩もジムも興味なし(笑)。どんなに仕事が立て込んでも元気で、寝込んだことはありません。肩こりくらいかな。こればかりは親から譲り受けた健康なDNAに感謝です。ただ、目は酷使したせいか黄斑変性症に。片目は見えませんが、幸い、目はふたつあるから、片目で仕事をしています」

「知らない世界を旅し、味わったことのない体験ができる。こんな楽しい仕事はない。映画と、字幕翻訳という仕事に出合えて、私は本当に幸せです」

歳を重ねると、体力や集中力の低下、定年後のキャリアなど悩み多きプレシャス世代。仕事ってなんですか。戸田さんにそんな悩みをぶつけてみた。

「しなきゃいけないこと=仕事だと思っているのなら、私の場合は違います。仕事=生きること、生活です。まったく嫌なことじゃない。むしろ楽しくて十分に満足。ほかにいい仕事があるかなんて迷ったことはありません。だって字幕翻訳がいちばんやりたくて、私にはこれしかないと思っているから。義務じゃない、楽しめる仕事を見つけられたらいいと思います。

何をしていいかわからないとよく聞くけれど、誰だって好きだと思うことのひとつやふたつあるはず。自分はどういう人間で、何が好きで、何をすべきかを突き詰めて考えてみてはどうでしょう? 90歳を前にして、今、つくづく思うんです。人生はほんとに短い。あっという間です。だから、いやいや仕事をして過ごすほどもったいないことはない。せっかく命をもらっているのに申し訳ないじゃない?」

SNSはいっさい見ない、やらないという戸田さん。テレビはニュースとドキュメンタリーを観る程度だとか。

「見なくてもいい情報に触れて誰かと比べたりしないで、自分を信じて、自分の道を選択してください。今の人は、携帯電話の中の世界がすべてのように感じます。一歩でいいからそこから飛び出してほしい。想像以上に広くて素晴らしい世界が広がっているはず」

自分が生きていて体験できることなんてごくわずか。だからこそ本を読み、映画を観て想像力を羽ばたかせ、自分の世界を広げるべき、と戸田さん。

「映画の中では、どこへでも飛んでいけます。宇宙でも海底でも砂漠でも。あるいは人の心のひだの中までも。未知の世界を旅し、味わったことのない体験ができる。それこそが映画の魅力です。字幕翻訳作業は、そんな旅をしながら、すべてのキャラクターになりきって、頭の中でお芝居ができる仕事です。ただの翻訳じゃなく、エモーションでセリフを翻訳する。俳優の役づくりと同じ。冒険したり、スパイになったり、恋愛したり離婚したりと、ハラハラドキドキの連続です。こんな楽しい仕事はありません。私は、映画に、この仕事に出合えて本当に幸せです」

【戸田奈津子さんの仕事年表】

字幕翻訳家の戸田奈津子さんの仕事年表
 

『地獄の黙示録』によって、字幕翻訳者としての道が確立!

字幕翻訳家の戸田奈津子さんとフランシス・F・コッポラ監督
1976年、フランシス・F・コッポラ監督来日時。通訳兼ガイドを担当。

親友であり盟友であるトム・クルーズと!

字幕翻訳家の戸田奈津子さんとセレブたち
左/2025年5月『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』での来日時に。右上/「ジョニー・デップは、どんな質問にも本音で答えようと、真摯に言葉を選ぶ。誠実な姿勢が素敵」と戸田さん。右下/『タイタニック』がレオナルド・ディカプリオとの出会い。世界で初めて上映されたのが六本木の東京国際映画際。
字幕翻訳家の戸田奈津子さん
2025年6月、88歳の節目にヨーロッパ旅行へ。左/バルセロナはサグラダ・ファミリアへ。右/パリ、小さなアートシネマの前で。

【戸田奈津子さんに一問一答!】

Q.好きな言葉は? 好きなことを見つけて、それに生きる。イヤなことはしない。
Q.生まれ変わったら何になりたい? 別の時代に行けるならルネサンス時代に生まれてあの時代の素晴らしい芸術を堪能したい。
Q自分を動物にたとえると? ナマケモノ。
Q.推しはいますか? 大谷翔平さん。彼はすごい! 彼が出るシーンは夢中で観てしまいます。
Q.超能力がもらえるなら? 何もいらない。もう十分。みんな欲張りなんじゃない?
Q.好きな時間は? 寝るとき。寝るのが大好き。
Q.最大の後悔は? ない。あったとしても忘れた。クヨクヨしないのが長所なので。

PHOTO :
篠原宏明
EDIT&WRITING :
田中美保、佐藤友貴絵(Precious)