同じ店に通いつめたというエピソードの中でも、最も極端な例が、永井荷風と「尾張屋」の関係である。
「私が昭和29年に嫁いできたとき、女将であった母から『変な爺さんが毎日昼に来るから、奥の席を必ずとっておくこと。お茶を出したら注文は聞かないでいいから、かしわ南蛮を出すこと』と言いつけられました。それが永井荷風さんだったのです。まさに一年365日通われました」と、女将の田中登美子さんは当時を思い出しながら語ってくれた。

永井荷風が365日通った謎を残す浅草の名店「尾張屋」

荷風が飽きずに毎日注文した「かしわ南蛮」

鶏の脂で炒めた鶏肉とネギをのせた、かしわ南蛮¥900。見た目より香ばしく、あっさりとしていて、毎日食べても飽きないのがうなずける。

毎日来店しながら一言も口をきかず、いつもテーブルのすみにお勘定を小銭で一列に並べて帰るだけ。荷風が
38歳から72歳で亡くなる間際まで書きつづった『摘録 断腸亭日乗』(岩波文庫)に、夕食の店名は多数あれ
ど、日参した「尾張屋」の名は見当たらない。

後半になると、午後や正午に浅草という記述が頻繁に登場するが、それが来店を意味していたのだろう。しかし、毎日かしわ南蛮を食べ続けるとは、よほど気に入っていたのか。

「うちは天ぷらそばが名物で8割方が召し上がっているのに、永井さんはかしわ南蛮一辺倒。どうしてなの
か聞いたこともありません」

  • 丼からはみ出してしまうほどの大きさの、クマえびの天ぷらそば¥1,300。ごま油で揚げた天ぷらの香りがよく、満足度も高い。これが本来この店の名物なのだ。
  • 調理場のすぐ前に、永井荷風の席があった。

そんな女将に初めてかけられた言葉が「お手洗いはどこ」。そのお手洗いで荷風は倒れ、間もなく女将は荷風の訃報を新聞で知る。結局、なぜ通いつめ、かしわ南蛮を食べ続けたのかはわからないまま。

雷門の近くにある店は今も繁盛を続け、店内には荷風のファンであった学生が盗み撮りした氏の写真が飾られている。もしかしたら、頑固一徹の永井荷風は、この店の守り神だったのかもしれない。

尾張屋
東京都台東区浅草1-7-1
TEL:03-3845-4500
営業時間:11時30分~20時30分
定休日:金曜休
アクセス/地下鉄「浅草」駅より徒歩5分。
車えびを使用した上天ぷらそばは¥1,900。※価格は税抜きです。

※2009年春夏号取材時の情報です。

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MEN'S Precious編集部 
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MEN'S Precious2009年春夏号、文士が愛した寿司屋と蕎麦屋より
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PHOTO :
小西康夫