まったく今年の夏はひどいものだった。30度、31度が涼しく感じるなんて異常だよねえ。気温35度の炎天下だと10分も歩くとクラッときます。打ち合わせでクーラーの効いた場所を準備してくれるのはありがたいが、外にでるとまた汗ぐっしょり。途中で喉が渇くからやたら冷たいものを飲むでしょ? そうすると胃腸がやられて、ヘバる。
残酷で優しいのが人間の本来の姿、
心に残る名作映画『運命は踊る』
ぼくが外出時、留守番役の犬も一日中つけっぱなしのクーラーで喉をやられ、可哀想にヘンな咳をしてましたよ。食欲もなく、散歩にも行きたがらない。完全に冷房病。こいつも猛暑の被害者なんだよな。
ファッションの冬ものの撮影もこの時期まっさかり。こればかりは気温に関係なし。ぼくも何本かアテンドしましたよ。スタジオ撮影ならなんの問題もないが、ロケになると地獄だからね。今年はモデルたちもキツかったはずだ。
日陰を選んで撮影をするとしてもだね、35度の外気のなかでカシミア混のポロコート着用なんて一種のハラスメント行為ではないか。着て、数分後には顔から汗が噴き出すものね。それを抑えるメイクアップアーティスト。ちょっとでも待ち時間があるとエアコンをマックスに設定したロケバスで体を冷やすモデル。そのイタチごっこなんである。汗まみれの着用サンプルの回収し、クリーニングに出すスタイリストのアシスタントだってうれしくはないわな(笑)。
8月前半のある日など、横浜の自宅で原稿書きの日だったんですがね、犬の散歩や試写を含め3回外にでたんです。出るたんびに大汗をかき、シャワーを浴びる。その日は5回浴び、頭をすっきりさせるため、オーデコロン(ゼニア・ウイズドム)を滝のように体に浴びせた(ぼくの後にエレベーターに乗ったマンションの隣人たちよ、失敬!)。なんたるムダかと思う。
その酷暑の日の午後、観た試写がイスラエル映画『運命は踊る』。昨年のヴェネチア国際映画祭審査員グランプリ作品です。
ちなみにヴェネチアにはいろいろな賞があるけれど、この審査員グランプリは、金獅子賞につぐ第二席で、二種ある銀獅子のうちの一つなんですからね(金獅子は『シェイプ・オブ・ウオーター』。もうひとつの銀獅子は、監督賞でありまして、『カストディ』のグザビエ・ルグラン氏)。
イスラエルというとぼくなんか反射的に「戦争」という言葉がでてくるぐらい、「戦争」と、その状態にいたらないまでも始終「軍事衝突」をしている国というイメージがある。実際、トランプ氏の核合意脱退で、いつイランと戦争になるかわからないシリアスな状況であるわけだけどね。『運命は踊る』もまさにそういったイスラエルの国情を反映している作品だ。
映画は、軍の役人がミハエルとダフナ夫妻のところに息子ヨナタンの戦死を知らせるためにやってくるところからはじまる。そう。イスラエルには、男女を問わず兵役があるですよ。二十代の娘がいるぼくなど、その時点で娘がこういうイスラエルの青年と付き合っていたらどうするべえ、と感情移入してしまう(そうそう、これがぼくの映画鑑賞法の基本なんですが)。
身も世もなく泣き叫ぶ妻、ダフナ。そりゃそうだろう。お話にならんよ。そこにですね、こんどは、それが誤報で、戦死したのは違う若者であったとの報が入る。ここからなのだ、見所は。
息子が生きている、それだけで十分満足しているダフナに対し、ミハエルは、その状況に対してキレてしまう。てめえ、こんな誤報をだしやがって、いったい何を考えとるんじゃい、とね。即座に息子を帰還させろと軍に談じ込む。もうだれも止められない。
息子の死という父として考えうる最大の衝撃、それが誤報であったというドンデン返しで、それまで溜めに溜めこんできたミハエルのトラウマ&ストレスがドバドバあふれ出てしまうのである。夫婦喧嘩でもときどきあるじゃない、あなたは過去にアレもしたコレもした、それをガマンしてきたのは誰だと思ってのよ!というヤツ。あれの男版、民族版、ディープ版が濃厚にドバドバっと(笑)。そうなったら手のつけようがない。
戦争/ホロコーストという家族の記憶。それを背負いながらも建築家として、新しいユダヤ人の生き方を模索し、やっと成功したミハエルにとって振り出しにもどるように、またも真っ黒い影を落とした戦争が立ちはだかる。ぼくだって呪われていると叫びたくなるだろう。
物語はミハエルだけではなくダフナ、ヨナタンにも等しく、原タイトルのダンスステップ名「フォックストロット」のように、ステップを踏み出してはまた元の位置にもどってしまう運命のサイクルも描いているが、やはり、年齢的にも立場的にも父親であるミハエルにぼくは投影してしまいましたね。
テロや麻薬、差別や暴力といった悩みを抱えるアメリカ、南北問題をかかえる韓国、そして常在戦場国家イスラエル、こういうい重い背景を抱える国のほうがココロにグサッとつきささる映画をつくるのではないかしら。最近つくづくそう思う。それにくらべると、リアルな危機に直面していない日本の映画は、取り扱うテーマがニッチで軽いように思えてしまう。
さて、映画のラスト、このフェルドマン家にカタルシスは訪れるのでありましょうか。
ヒントは、次の言葉です。
人は、運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命に出会う──。
「すべての道はローマに通じる」で有名なフランスの詩人、ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの金言であります。
おひとりでじっくりお確かめあれ。