店内には井上氏の高い審美眼に適うものだけ
青山通りと交わる外苑西通りを麻布方面に少し歩く。大きな店が少なくなり、街の様子も少し落ち着き始めたあたり、ビルの地下1階にあるのが『アーツ』だ。率直に言って、誰しもを歓迎するようなエントランスではない。
店が認める者だけが足を踏み入れることを許すような、少し重たい引き戸を開く。それまでいた青山のきらびやかな繁華街とは景色が一変する。
店内は1900年代初頭のパリの秘密のサロンのようだ。文化や芸術は生きていくうえで必須ではない。しかしそれらがないと味気ない。そういうものを集め、文化度の高い人たちが楽しめる場に、との思いが店名の『アーツ』に込められている。だからか、内装にはアングラなカルチャーの薫りも漂う。実はインテリアは、オーナーである井上大輔氏自らが手がけている。
「アンティーク調の西洋文化を模倣しただけの世界観に飽きて、どんどん自分たちの好きなものを加えていったら、今の形になりました。変化こそがこの店のスタイルです」
カウンター8席、3名と4名が座れるソファ席が2つと、決して広い店内ではないが底知れぬ奥行きを感じさる。カウンターの右手にはハードリカーのボトルがずらりと並び、じっくりと眺めるだけでも楽しい。
正面に目を向けると、『バカラ』や『ラリック』のグラスが並ぶ。しかも汎用性の高いシンプルなデザインではない。アートピースとも呼ぶべき華麗なグラスばかりだ。
「グラスに凝っている時期があって、その時に買い集めたもの。『バカラ』のエッチングはアンティークがいいけれど、カットグラスは現行品がいいですね」
気の利いたグラスは年代もの、とアンティーク至上主義になりがちなだが、井上氏はそうではない。ブランドや金額に左右されない確かな審美眼を持っている。心惹かれるものには、本職顔負けの気合で取り組むことでその審美眼は鍛えられている。音楽一つとってもそうだ。店内で流れている音楽はクラシックだが、彼の好きな『ゴルトベルク変奏曲』は楽器やピアニストが違うものも集め、そのコレクションは数え切れないほどの枚数という。
他にもこだわりが感じられる一例を店内で見つけた。フランスで作ったというオジリナルのアブサンだ。そのラベルを作る際にフォントに興味を持ち、タイポグラフィをはじめとするグラフィックの勉強をした。
フォントやグラフィック、デザインに関する洋書を買い集め、デザイナーに綿密な指示を出してラベルを完成させた。どこまでも突き詰めないと気が済まない性質なのだ。
流れるような動きから生まれるジントニック
そのバーの力量をはかる指針の一つに、ジントニックがある。基本的なカクテルだからこそ、レシピからグラス選びまで、その店のセンスがわかるのだ。さっそくオーダーすると、強面の井上氏からは想像もつかない、流れるような手さばきで作り始めた。繊細で無駄のない動きは、まるで彼が演者として立つ舞台を見ているようだ。
「その場でしか味わえないライブ感を大切にしています。でもお客さまが求めているのはバーテンダーの技術や知識ではありません。プロのバーテンダーとして提供するものと真摯に向き合い、おいしいものを提供するのが大前提です」
『バカラ』の金彩グラスに注がれたジントニックが到着する。過度な装飾や奇をてらいすぎたレシピは彼の美意識に反するため、見た目も味わいもごくシンプルだ。甘さを控えめにし、ジンの風味を引き出した1杯はすっきりと喉に流れていく。
「ハードリカーのボトルが多いので、ハードリカーメインの店だと思われがちです。でも常連の方々はカクテルを目当てにされていることも多いです」
後編では『アーツ』でしか飲めないカクテルやバーとして大切にしていることをうかがう。
問い合わせ先
- アーツ TEL:03-5411-6618
- 住所/東京都港区南青山3-2-6 セントラル第5ビルBF
営業時間/20:00〜26:00
定休日/日曜、祝日
- TEXT :
- 津島千佳 ライター・エディター
- PHOTO :
- 小倉雄一郎
- COOPERATION :
- ARTS