1970年代、東京には後世に語られる魔窟のような店があった

『バー・ラジオ』を開店するまでを教えてください。

『バー・ラジオ』を開店したのは1972年。その少し前、東京が新しい時代を作り始める70年安保があった頃、24歳の時に上京しました。最初にいけばなの先生の元に入門し、それから新宿の『ダグ』(※1)というジャズ喫茶店に勤め始めました。

当時の新宿は、催涙弾やら火炎瓶が飛び交っていて煙がもうもう。線路の敷石も過激派が投げるから、全部網をかけていましたし、新宿伊勢丹も4階まで網をかけていました。田舎から出て来て、いきなり過激な都会に触れて目を丸くしていました。

『バー・ラジオ』の尾崎氏
『バー・ラジオ』の尾崎氏
お話だけうかがうと物騒ですが、尾崎さんの目には魅力的に映ったのですよね? 

当時の新宿は東京の新しい文化をリードしていました。『紀伊國屋書店新宿本店』(※2)のビルができて以降、作家をはじめとする文化人はことごとく新宿に集まっていました。小田急沿線に米軍キャンプがあり、電車1本で来られるものですからアメリカ人が多く、ジャズがものすごく流行ったのです。注目度の高いコンサートはみんな厚生年金ホールでしていましたね。

『ダグ』は紀伊國屋書店の裏にありまして、有名な建築家が内装を手がけた洒落た店でした。高級な喫茶店で、良いオーディオで良いジャズを流していたのですよ。ご主人の中平穂積(※3)さんは、ジャズメンを撮影して写真集を出版している写真家。その店の自由な雰囲気が私と合いました。お酒を出す5時になると篠山紀信(※4)さんに黒川紀章(※5)さんなど、今の東京の文化を作った人が集まっていました。

『バー・ラジオ』のカウンターには様々な品が並ぶ
『バー・ラジオ』のカウンターには様々な品が並ぶ
尾崎さんの印象に残っている店はどこでしょうか?

新宿には『ナジャ』(※6)と『アイララ』(※7)というバーがあって、『ナジャ』に飲みに行くと、だいたい篠山紀信さんや立木義浩(※8)さんがいました。独特の雰囲気で、すごく人気があったのです。狭い店ですから、普通の人がいっても門前払い。篠山さんたちは毎日そこで遊んでいたのです。

『バー・ラジオ』のカウンターに置かれたデスクライト。アンバーの灯りがノスタルジックなムードを醸し出す
『バー・ラジオ』のカウンターに置かれたデスクライト。アンバーの灯りがノスタルジックなムードを醸し出す

六本木には『西の木』(※9)という挿花家の栗崎昇(※10)さんが経営する高級なクラブがありました。当時『バー・ラジオ』で200円だった水割り1杯が1000円もするし、スコッチしか置いていませんでした。美形の青年たちに着物・袴を着せて接客させているし、すごい花は生けてあるし、本物の藤田嗣治(※11)が飾ってあるし。ここも稼いでいる文化人のたまり場でした。

極端に個性の激しい、ものすごく魅力的な、魔力を帯びたような店がありました。もう魔窟ですよ。あの時代はおもしろかったですね。

※1 写真家の中平穂積氏が純粋にジャズを楽しめる場所がほしいと、1961年に『ダグ』の前身となるジャズ喫茶『ディグ』をオープン。1967年にアルコールを提供するジャズバー『ダグ』を開店させ、現在も営業を続けている。
※2 1964年竣工。書店のほか、創業者の田辺茂一氏が、文化・芸術の発信をしたいとの思いから紀伊國屋ホールと画廊とを併設。紀伊國屋ホールには、日本演劇界を代表する劇団が次々と登場し、“新劇の甲子園”とも呼ばれている。
※3 1936年生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業後、1961年にジャズドラマーであるアート・ブレイキーの初来日を撮影したのを皮切りに、ジャズメンを撮り続けている。1961年にジャズ喫茶『ディグ』、1967年にジャズバー『ダグ』をオープンする。
※4 1940年生まれ。日本大学芸術学部写真学科在学中より写真家として活動を開始。広告制作会社『ライトパブリシティ』を経て独立。歌舞伎役者からヌードまで、幅広いジャンルの撮影を行う日本を代表する写真家の一人。
※5 1934年生まれ。社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案する建築の理論運動メタボリズムを提唱し、弱冠26歳で世界にデビューする。国内外の建築物を手がけ、建築界のノーベル賞ともいわれているフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞している。 2007年没。
※6 銀座の高級文壇バーでNo.1だった真理子ママが開いたバーで、1960〜70年代に数多くのクリエイターが集まった。
※7 『ナジャ』の2号店として1968年にオープンしたバー。サンバの流れる陽気な店で、は赤塚不二夫やタモリを始めとする数多くのクリエイターが通った。現在も営業中。
※8 1937年生まれ。1963年に撮り下ろした作品『舌出し天使』で脚光を浴びる。現在も女性の写真を中心に精力的に撮影し続けている。本誌連載『お洒落極道』の撮影も担当する。
※9 1965年、六本木に会員制のサロンとして栗崎昇氏がオープン。厳選したアール・ヌーボーやアールデコの調度品と栗崎氏が生けた花が飾られていた。
※10 1937年生まれ。独学で花の修行を始め、自由で独創性のある作風が注目される。1970年にエリザベス女王夫妻が来日した際に、英国大使館で開かれた晩餐・舞踏会の飾花を担当した。
※11 1886年生まれ。1913年に渡仏し、ピカソらと交流しながら、独自の作風を確立。パリで人気を博す。女性と猫をモチーフにした作品を数多く残している。1968年没。

杉本貴志さんの誘いで、東京にないバーを作ることを決心

『バー・ラジオ』のカウンターに飾られている1930年製の『RCA Victor』の真空管ラジオ
『バー・ラジオ』のカウンターに飾られている1930年製の『RCA Victor』の真空管ラジオ
どういう経緯で『バー・ラジオ』をオープンすることになったのでしょうか?

バーを出したかったのですが、当時のバーは帝国ホテルやホテルオークラなどの高級ホテルや銀座に高級な店が数軒ある程度。ものすごく裕福な人しか行けないところでした。当時、新宿のバーはホステスがいて、要はクラブのミニチュア版。世間の人々のバーに対する解釈って、その程度だったのです。

そんな時、『ダグ』のお客様で、当時芸大生だった杉本貴志(※12)さんが神宮前2丁目に良い物件を見つけてきたので、私に「何か店をやれ」と誘ってきたのです。あの頃の神宮前は、店はおろか、人もほとんど歩いていないような土地。でも杉本さんがお友達を連れて来てくるし、私も『ダグ』のお客様が少しいるし、お客様は来てくれるとは思っていました。でもそれだけではだめ。電車で来られませんから、わざわざタクシーで来てくれる店を作ろうとなりました。当初は『ラジオ』という店名でスタート。頭に“バー”を付け、『バー・ラジオ』と名乗るのは数年後のことです。

『バー・ラジオ』内扉に施されたレリーフ
『バー・ラジオ』内扉に施されたレリーフ
どのようなお店を目指したのでしょうか?

『ダグ』のように良いインテリアの洒落た店で、誰も作っていないお酒を出す店にしたいと考えました。器も北欧やイタリーの良いものを揃え、『ナジャ』や『アイララ』のように文化人のサロンになるような、そして、いかにも水商売的ではない上品なお酒を飲ませる場所を作りたかったのです。映画『ミッドナイト・イン・パリ』(※13)に出てくるサロンに近いイメージでしょうか。洒落た雰囲気だけど値段は抑えた、東京にない店を作ろうと思ったのです。

※12 1945年生まれ。インテリアデザイナーとして『西武百貨店』、『無印良品』各店、『パークハイアットソウル』、『ハイアットリージェンシー京都』などを手がける。2018年没。
※13 ウッディ・アレン監督の映画。パリを舞台に主人公がタイムスリップするファンタジーコメディ。第84回アカデミー賞脚本賞受賞作。
尾崎浩司さん
『バー・ラジオ』マスター・華道小原流教授
1944年生まれ。1972年『バー・ラジオ』、1986年『セカンド・ラジオ』、1998年『サード・ラジオ』をオープン。茶道の美意識を基に、独学でバーテンダーとしての現在のスタイルを作り上げる。現在は『サード・ラジオ』を改め『バー・ラジオ』の1店を営業中で、尾崎氏は月に10日ほど店に立っている。華道小原流教授。
井上大輔さん
バー『ARTS(アーツ)』のオーナーバーテンダー
南青山3丁目にあるバー『ARTS(アーツ)』のオーナーバーテンダー。尾崎氏を思慕するバーテンダーの一人。尾崎氏の美意識を追求する姿勢を敬愛し、自らもバーとはおいしい酒を嗜む文化・芸術の実験的空間と捉え、店名を『ARTS』とする。
この記事の執筆者
フリーランスのライター・エディターとして10年以上に渡って女性誌を中心に活躍。MEN'S Preciousでは女性ならではの視点で現代紳士に必要なライフスタイルや、アイテムを提案する。
PHOTO :
小倉雄一郎
COOPERATION :
ARTS
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