美しく、おいしいカクテルを出せば、名声はお客様が作ってくれる
まだ世の中が貧しかった1970年代の話です。美しいもの、おいしいものを提供していたら、評判は勝手にお客さまが広げてくれると信じていました。だから一生懸命、美しい、おいしいものを作りました。
それまでは高級バーでも安いグラスを使っていました。良いグラスでカクテルを出したら、美しくおいしく見えるのに。バックバーのグラスもみんな伏せて置いていました。私はお茶をしていましたから伏せたり、重ねて置いておくとグラスの良さがわからないことを知っています。『バー・ラジオ』のグラスは良いものですし、最初から上向きで、飾るように置いていました。
それを「素人があんなことをやって」と銀座の古いバーテンダーから揶揄されたものです。バーテンダーの教育を受けずに『バー・ラジオ』を作りましたから、高級ホテルや銀座のバーテンダーからはド素人と言われていました。
『バー・ラジオ』の名声は大切なお客様たちが作り上げてくれると思っていたので、利益を上げるよりも、良い店作りに重きを置きました。ルキノ・ヴィスコンティ(※1)は、映画にお金をつぎ込んで、作るたびに赤字でした。ヒット作を作ろうとはしていませんでしたから、あれだけの作品ができたのです。
杉本さんの内装はすごく高額ですし、グラスは私の美意識に適うものだけを選んでいたので収入は全部店につぎ込んでいました。
有名な作家や芸能人でも、大声で騒ぐ人は2度と入れませんでした。着ているものが店に相応しくない人には「申し訳ありません。お召し替えをなさって、またお越しください」と言いました。こういう時、ビスコンティのようで気持ちよかったです(笑)。みんなには「流行っている『バー・ラジオ』の尾崎だから、ベンツくらい持っているだろう」と思われていたようですが、ずっと自転車やバイクで通勤していたのですよ(笑)。それを続けたから『バー・ラジオ』の伝説が生まれてくるのです。「中に入ると、かっこいい大人が飲んでいるよ」って。
『バー・ラジオ』のスタイルは、いきなりできたわけではありません。時間をかけて少しずつ作り上げたのです。たくさんの失敗をしたし、お酒を飲みすぎていた時期もあります。素敵なお客様をお手本として学び、お客様に育てられました。『バー・ラジオ』が無知な私の学校となり、良い先生たちに出会えたのです。
そしてこの頃には、本当におもしろい人種がたくさん集まっていました。村上春樹(※2)さん、村上龍(※3)さん、林真理子(※4)さん…みなさん若い時からいらしていました。
※2 1949年生まれ。1979年『風の歌を聴け』で作家としてデビュー。代表作に『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『ノルウェイの森』など。訳書も多数。
※3 1952年生まれ。1976年『限りなく透明に近いブルー』で、第19回群像新人文学賞と第75回芥川龍之介賞を受賞し、デビュー。社会性の強い作品を数多く発表している。映画監督、経済番組のホストとしても活躍する。
※4 1954年生まれ。1982年、デビュー作のエッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』がベストセラーとなる。1986年「最終便に間に合えば」「京都まで」で第94回直木賞を受賞。女性の様々な面を描く作風で人気を呼ぶ。
バーテンダーの美意識を変えた『バー・ラジオのカクテルブック』
アメリカやフランス、イギリスなどには洒落たカクテルブックがあります。高価なグラスを使っていないのに、センスの良さが際立っている本です。当時日本のバーテンダーの地位は低く、ならずものの職業と思われていました。私も親戚に「バーテンダーなんて恥ずかしくて言えない」と隠されていたのです。海外のカクテルブックのような素晴らしい本を作って、その意識を変えたい、と奮起しました。
カクテル作りはもちろん、グラスのコーディネートも担当しました。一番古いお客様である和田誠(※6)さんが、カクテルの写真の背景が黒だとかっこいいと教えてくれ、デザインもしてくれました。和田さんが影のアートディレクターです。
1992年にはトレヴィルという出版社から2冊目の『THE BAR RADIO COCKTAIL BOOK』を発行しました。製作には膨大な時間とお金がかかりましたが、この本で一躍『バー・ラジオ』が認められました。私は「筋書き通りになった」と思いました。散々悪口も言われたし、書かれましたけれど、みなさんが『バー・ラジオ』の伝説を作ってくれたのです。
※6 1936年生まれ。デザイナーを経て、1968年にフリーランスのイラストレーターとなる。『週刊文春』の表紙のほか、数多くの書籍の装丁も手がけている。
海外のインテリア誌でも紹介された改装後の『バー・ラジオ』
1982年のことです。うんと大人の世界にしたいと、内装を変えました。経営は順調だったものですから、田中一光(※7)さんたちには反対されたのですが。でも「どこにもないバーを作るからね」と杉本さんにも1年かけて設計してもらいました。
若林奮(※8)さんが作ってくれたカウンターと壁面がよかったものですから、イタリアのCASA VOGUEにも見開きで店の写真が掲載されました。
すると海外の有名デザイナーや建築家も来てくれるようになって、さらに素晴らしい人たちが集まるようになりました。新しい若いバーテンダーが『バー・ラジオ』を見習うようになりました。“ド素人”の私のやり方が定着した証です。
良いグラスを使って、花を生けるとお金がかかります。儲けだけを考えたら『バー・ラジオ』のやり方は賢くはありません。でも私は若い頃から花とお茶を習っていたので、バーテンダーとしての千利休(※9)になりたかったのです。
利休は裏で商人として儲けながら、表で美しいお茶を出していました。彼は両面をうまく使った人だったけれど、私はバーテンダーしかしていない。私も影で悪徳不動産屋でもしていたら「映画や小説の主人公になれたのに」と思うことは、今でもあります(笑)。
※8 1936年生まれ。彫刻家として鉄や銅、鉛などの金属を素材とし、自然を題材にした作品を多数制作。2003年没。
※9 織田信長、豊臣秀吉に仕え、派手な装飾や演出を排した侘び茶の様式を完成させる。茶室を独自の様式として確立。
- TEXT :
- 津島千佳 ライター・エディター
- PHOTO :
- 小倉雄一郎
- COOPERATION :
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