MEN'S Preciousでも活躍されているファッションジャーナリストの増田海治郎さんが、初の著作を発表されました。その名も『渋カジが、わたしを作った』(講談社)。渋カジ直撃世代の1972年生まれながらも、埼玉県の田舎町で生まれ育った〝なんちゃって渋カジくん〟だったと告白する増田さん。この本は、そんな彼が25年にわたって溜め込んだ、渋カジに対する憧れや興味、そしてルサンチマンまでも発散するような・・・そんな超力作でした! まさか田中の律っちゃんまで引っ張り出すとは・・・アンタすごすぎるよ!
律っちゃんに代表されるように、本来の意味での渋カジってのは、1980年代後半に巻き起こった、東京生まれの育ちのいい坊ちゃん嬢ちゃんによるアメカジムーブメントなわけです。しかし1976年生まれ、そして増田さんの地元にも近い埼玉県の郊外で育った僕の場合、律っちゃんを渋カジと認識することはありませんでした。そういう人間たちの存在をはじめて認識したのは、おそらく1991年くらい、江口洋介のブレイクからだったように思います。
なんというか、僕にとっての渋カジとはもっと小汚いものだったのです。たとえるなら『スラムダンク』の鉄男とか、初期の『電波少年』に登場するチーマーとか、ああいうの。ショットのライダースジャケットにエヴィスあたりのジーンズをはいて、足元はトニー・ラマかレッドウイング。バンダナを六厘舎の大将みたいに巻いて、川越とか大宮の駅前にたむろって、ジーンズ狩り・・・。怖かったなあ。よく考えたら地方都市にいる時点で渋カジじゃないんだけど、1993年あたりには坂戸とか霞が関みたいな「急行しか停まらない」駅にもチーマーがいたもんね。しかも、彼らに憧れていた僕の場合はさらにショボくて、ショットは買えないから、2万9000円の「ギリギリ本革」ライダース。ヴィンテージもエヴィスも買えないから、リーバイスの復刻503。レッドウイングも買えないから、ホーキンスかウォーカーのエンジニアブーツ(以上すべてアメ横で購入)。仕上げは川越サンロードの露店で買ったインディアン風アクセサリー・・・(涙)。こうやって書いてると地域間格差をビンビン感じるなあ!
そんな僕にとってのこの本は、当時の憧れがギュッと詰まった、そして自らがやらかした赤面モノのファッションを思い起こさせる、嬉し恥ずかしの一冊でした。ちなみに一番恥ずかしかったのは「デルカジ」ね。中学3年生のとき、ジーンズメイトで買ったジーンズの上下に、父親のクローゼットから拝借した紺のジャケット(スーツの上着)とレジメンタイで、即席デルカジを気取っていたからなあ・・・。
というわけで、100人いれば100人の渋カジがある。あなたはこれを読んでどう思いましたか?