【第4話】薔薇
香り高い薔薇の庭園を、
彼女と一緒に散歩しながら、
私は中世の愛を巡る秘術の書である
『薔薇物語』の一節を思い出していた。
「〈愛〉を主人にしようと思うなら、
礼節を尊び、高慢を捨てること。
そして優雅に身を持し、
陽気な態度を保ち、
気前がいいと思われるように
しなければならない。」
既に摘み取られ、
捧げられた薔薇ではなく、
大地に根を張る
木に咲く花のように、
彼女の存在には、
ありのままの生が漲っていた。
私は為す術もなく、
ただ、古の賢知の言葉に縋るより
他はなかった。
(文/平野啓一郎・小説家)引用:『薔薇物語』(ギヨーム・ド ロリス, ジャン・ド マン 著、篠田勝英訳)
フランス香水界の至宝と讃えられる、天才調香師エドゥアール・フレシェの香水
フレデリック マル『ユヌ ローズ』
20年くらい愛用している香りがあります。つけていないと何か物足りない、出かけるときに靴を履くのと同じくらい僕に馴染んだ香り。使い切ったそのオードトワレの瓶は捨てずにいます。1本だけ割ってしまいましたが、一生のうちに何本使うのかなって。
気にいった香りがあると、人生を多少助けてくれる気がするんです。僕が同じものを使い続けているのは、その香りを好きだという人が多いというのもあります。サイン会なんかの後に、「平野さんいい香りがしました」と書かれたりとか(笑)。香りはライフスタイルやアイデンティティと強く結びついているから、自分が好きなだけでなく、好印象をもたれ、自分に似合うということが重要。見えないものだけど、服より個々を表現するものかもしれません。触れてはいないんだけれど、触れているように感じさせるものというか。そういう香りを見つけるまではいろいろ試してみる必要があると思いますけど。
フレデリック マルは、ヨーロッパの本物のラグジュアリーとか、フランスのエレガンスとか、そういうすごく濃厚な部分、五感にアプローチするカルチャーから生まれた香りという印象です。香りがキツイのではなく、密度が高いというか。フランスで食べるお菓子が甘いだけでなく甘さ自体に味があるように、フレデリック マルにも、それぞれの個性の断面が密というか、香りの仕上げに洗練を感じる。調香師が確信をもっていることがわかります。
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あらすじ
愛したはずの夫は、まったくの別人であった。
「マチネの終わりに」から2年。平野啓一郎の新たなる代表作!
弁護士の城戸は、かつての依頼者である里枝から、「ある男」についての奇妙な相談を受ける。
宮崎に住んでいる里枝には、2歳の次男を脳腫瘍で失って、夫と別れた過去があった。長男を引き取って14年ぶりに故郷に戻ったあと、「大祐」と再婚して、新しく生まれた女の子と4人で幸せな家庭を築いていた。ある日突然、「大祐」は、事故で命を落とす。悲しみにうちひしがれた一家に「大祐」が全くの別人だったという衝撃の事実がもたらされる……。
里枝が頼れるのは、弁護士の城戸だけだった。
人はなぜ人を愛するのか。幼少期に深い傷を背負っても、人は愛にたどりつけるのか。
「大祐」の人生を探るうちに、過去を変えて生きる男たちの姿が浮かびあがる。
人間存在の根源と、この世界の真実に触れる文学作品。
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バックナンバー
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- クレジット :
- 撮影/戸田嘉昭(パイルドライバー/静物)、宮澤正明(人物) スタイリスト/櫻井賢之