【目次】
- 「明智光秀忌」とは? 意味・命日・由来を解説
- 明智光秀とはどんな人物? 織田信長に仕えた知将の生涯
- 「本能寺の変」はなぜ起きた? 今も残る“黒幕説”と動機の謎
- 「敵は本能寺にあり」は本当に言った? 有名な逸話の真相
- 明智光秀は“悪人”だったのか? 歴史評価が変わり続ける理由
- 実は子孫も有名人? 明智光秀ゆかりの人物と家系の話
- 大河ドラマでも話題|現代人が惹かれる“明智光秀像”とは
【「明智光秀忌」とは? 意味・命日・由来を解説】
■意味
「明智光秀忌(あけちみつひでき)」とは、戦国時代の武将・明智光秀の霊を慰め、その功績を偲ぶために執り行われる追悼行事(法要)およびその「忌日」を指します。
■「忌日」と「命日」
「忌日」は「きにち」もしくは「きじつ」と読み、「亡くなった日」を指しています。「命日」とは、ほぼ同義です。「忌日」は「いみび」とも読みますが、こちらは「けがれを避けて慎むべき日、物忌みの日、縁起の悪い日」という意味。「いみび」と「きにち」「きじつ」は、区別して使いましょう。
■「いつ」?
「明智光秀忌」は、6月14日に営まれています。
■日付の由来
光秀の忌日については諸説ありますが、本能寺の変(1582(天正10)年6月2日)の直後、「山崎の戦い」で羽柴(豊臣)秀吉に敗れた天正10年6月14日という説が有力です。光秀が明智一族の菩提寺として自ら建立に深く関わったとされる大津市の「西教寺(さいきょうじ)」では、毎年6月14日に「光秀忌」の法要が厳かに営まれており、全国から多くの歴史ファンや関係者が参列しています。
■「明智光秀忌」が現代まで続く背景
光秀は主君である織田信長を討った謀反人としてのイメージが広く知られていますが、自らの領地であった地域(京都府福知山市や亀岡市、滋賀県大津市など)では、城下町の基盤を整え、税を免除するなどの善政を敷いた「名君」として現代まで深く慕われています。
【明智光秀とはどんな人物? 織田信長に仕えた知将の生涯】
明智光秀は、戦国時代を代表する武将のひとりであり、優れた軍事能力だけでなく、教養や政治手腕、さらには行事のプロデュース能力にも秀でた「知将」として知られています。しかし、その生涯、特に前半生には多くの謎が残されています。
■謎に包まれた出自と前半生
明智光秀の生涯には謎が多く、その前半生はよく分かっていません。通説では、美濃国(現在の岐阜県)の土岐明智氏を出自とすると言われています。流浪の身となった一時期、越前国(現在の福井県)の朝倉氏に仕えていたとされていますが、いずれも確実な資料は見つかっていません。
■盟友との出会いと破格の大出世
光秀の確実な足跡が史料に現れるのは、のちに盟友となる細川藤孝(細川幽斎)との出会いがきっかけです。藤孝の下で足利将軍家に仕えるようになり、将軍家と織田信長との交渉役として頭角を現します。信長は光秀の優れた実行力、深慮、そして状況に応じた狡猾さを見出し、ことあるごとに重用するようになりました。やがて近江国志賀郡(現在の滋賀県大津市)を与えられ、琵琶湖に臨む豪華壮麗な坂本城の建設を許可されるなど、破格の厚待遇を受けます。将軍家と信長が決別すると、かつて仕えていた藤孝をも自身の軍団の配下に従え、織田家を代表する武将へと急成長を遂げました。
■織田家の筆頭重臣へ
1575(天正3)年6月、光秀は山深く豪族が割拠する極めて困難な国境、丹波地方の攻略を任されます。各地の重要な戦いに動員され、あちこちを転戦しながらも、1579(天正7)年にはおよそ4年をかけて丹波平定を完了。信長はこの活躍を大きく称賛し、光秀に丹波一国を与えました。ここで光秀は、名実ともに大大名(国持ち大名)となったのです。
さらに光秀は、様々な行事の開催を差配するプロデュース業にも長けており、信長から絶大な信頼を得ていました。1582(天正10)年には、信長の命で徳川家康をもてなす饗応(きょうおう)役に抜擢されます。ところが準備中に、羽柴秀吉の中国攻めを手伝うよう命令が下り、出陣のため亀山城へ移動するのです。
■本能寺の変
光秀といえば、やはり「本能寺の変」というイメージですよね。実は「本能寺の変」が起きるのは、光秀が亀山城に移動した2日後の、天正10年6月1日午後9時ごろ。亀山城から出発した光秀は軍勢に対し、「出陣の軍装を信長に見てもらう」のだと偽って京へ向かいました。
そして翌日の6月2日早朝、1万人あまりの光秀の軍勢を引き連れ、信長がいる本能寺を急襲したのです。負傷した信長は自刃、その息子・信忠も討ち果たし、光秀のクーデターは成功。光秀は天下人に最も近い存在となりました。
■光秀の誤算と早すぎる最期
信長を討った光秀は各方面に味方を募るものの、賛同する勢力は想定以上に少なく孤立します。その隙に毛利氏との和睦をまとめ、驚異的な速さで京へ引き返してきた羽柴秀吉の軍勢4万人に対し、光秀の軍は1万5千人。圧倒的な兵力差のまま山崎(大山崎町)の地で激突し、光秀は敗北を喫します。戦場を脱出した光秀は、本拠地である坂本城を目指して敗走中、小栗栖(京都市伏見区)の地で農民の落ち武者狩りに遭い、非業の死を遂げたと伝えられています。
ちなみに、光秀の死はしばしば「三日天下」という言葉で語られますが、実際には光秀が信長を倒して天下をとってから、亡くなるまでには13日を要しています。「三日」という数字は、「きわめて短い間」を示すたとえであり、「三日天下」で「きわめて短い間だけ権力を握ること」という意味になります。
【「本能寺の変」はなぜ起きた? 今も残る“黒幕説”と動機の謎】
1582(天正10)年6月2日、明智光秀はなぜ主君である織田信長を急襲したのでしょうか。実はこの点は現在にいたるまで、日本史上最大のミステリーと言われています。決定打となる一次史料は見つかっていませんが、現在、有力説として注目される4つ説を紹介しましょう。
■怨恨説(単独犯行説)
古くから通説とされてきたのが、光秀個人の感情や動機に基づく説です。家康の饗応役を突如解任されたことや、信長からの度重なる折檻に耐えかねたことなど、信長に対して積もり積もった鬱憤を爆発させた結果が「本能寺の変」というわけです。また、当時、織田家内で安藤守就や佐久間信盛といった重臣が相次いで追放されていたことから、「次は自分が粛清されるのではないか」という恐怖心から先手を打ったとも考えられています。
■明智軍記や後世の創作による影響
江戸時代中期に成立した『明智軍記』などの読み物により、信長が光秀の母を人質に見殺しにした話や、領地(丹波・近江)を召し上げられ、まだ切り取っていない敵地(出雲・石見)への国替えを命じられた話などが広く流布しました。しかし、これらは一次史料には見えず、後世の軍記物語に由来すると考えられています。
■外交政策の行き詰まり
近年、歴史学界で有力視されつつあるのが、織田家の外交方針の転換に伴う「政策不一致」説です。光秀は、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と織田家を結ぶ外交取次を務めていましたが、信長が突如方針を転換し、長宗我部氏の討伐を決定。これにより、長年築いてきた外交努力が水の泡となり、面目を潰された光秀が追い詰められたとする説です。近年の史料発見により、この四国を巡る対立は確実性の高い動機のひとつとして注目されています。
■“黒幕”の存在
光秀単独の犯行ではなく、背後に糸を引く存在がいたとする説も根強く存在します。信長の急進的な天下布武や神格化を恐れた「朝廷(公家層)」、信長追放を画策し続けた将軍「足利義昭」、あるいは海外勢力である「イエズス会」などが関与していたとする仮説です。
信長を討った本当の理由は不明ですが、少なくとも「本能寺の変」に至る動機はいくつもあったようですね。
【「敵は本能寺にあり」は本当に言った? 有名な逸話の真相】
■同時代を記した一次ソースは存在しない
光秀が本能寺を襲撃する直前に「敵は本能寺にあり」と言ったことを証明する、当時の一次史料(日記や書状など)は存在しません。江戸時代中期に成立した『明智軍記』などによって、本能寺の変に伴う物語性が強調され、明治時代以降の教科書や演劇、現代の時代劇などを通じて「敵は本能寺にあり」というセリフが「光秀の決死の叫び」として一般に定着しました。そのため、このフレーズ自体は後世の「創作」である可能性が極めて高いとされています。
■ことわざ「敵は本能寺にあり」の意味は?
明智光秀が備中の毛利勢を攻めると見せかけて出陣し、京都本能寺の織田信長を襲ったところから、「本当の目的・目標は別にある」ということを意味することわざとして定着しています。
【明智光秀は“悪人”だったのか? 歴史評価が変わり続ける理由】
■地元・福知山に伝わる「名君」としての光秀
長年に渡り、光秀は「主君を打った冷酷な裏切り者」としての側面が強調され、語られることが一般的でしたが、光秀が実際に治めた丹波(京都府福知山市・亀岡市など)や、本拠地を置いた近江(滋賀県大津市)の地域では、歴史評価が全く異なります。
光秀は氾濫を繰り返していた由良川の水害を防ぐため、自ら「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれる堤防を築き、城下町の基盤を整備しました。また、地子銭(土地にかかる税金)を免除するなど、領民の暮らしを最優先に考えた政治を行っています。また、当時の武将としては珍しく側室を持たず、正室の煕子(ひろこ)を生涯大切にした愛妻家としての伝承や、家臣を思いやる各種の分国法(規律)を定めたことなど、知的で倫理観の高い人物像を示す史料が数多く遺されています。このように、中央の政治史では「裏切り者」であっても、地方の郷土史では「恩人」として、現代でも神社に祀られ慕われ続けるという二面性を持っています。
■「歴史学」という学問のアプローチが変わった
現代の歴史学は、人物を単なる「善悪」の二元論で論じるのではなく、「その時代にその立場にいた人間が、なぜそう動かざるを得なかったのか」を解き明かす学問へと変わってきています。また、光秀自身が当時書いた直筆の手紙(一次史料)や、領地に残る行政文書の解析が進み、偏見のない実像が明らかになっています。そのため、「光秀は裏切り者「主君を殺めた悪人」というひと言では片付けられない、多面的な魅力を持つ知将として、評価がアップデートされているのです。
【実は子孫も有名人? 明智光秀ゆかりの人物と家系の話】
■ラジオDJのあの人が…
ドイツ系米国人の父と日本人の母をもつ、ラジオDJのクリス・ペプラーさんが、母方の家系を通じて光秀の末裔であると判明し話題を呼びました。2019年2月12日には、福知山城にて、福知山市の大橋一夫市長から委嘱状を交付され、「明智光秀が築いた城下町 福知山 特別大使」に就任しています。
■細川ガラシャからつながるのは…
光秀の子供のなかで、最も広く知られているのが三女(諸説あり)の玉(たま)、のちの細川ガラシャです。光秀の盟友であった細川藤孝の嫡男・忠興(ただおき)に嫁いでいましたが、本能寺の変によって「謀反人の娘」となり、一時期は味土野(現在の京都府京丹後市)の山奥に幽閉されるなど過酷な運命を辿りました。後にキリスト教に入信してガラシャの洗礼名を受け、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの直前、石田三成の人質となることを拒絶して悲劇的な最期を遂げます。このガラシャの血筋は、現在の熊本藩主となる細川家の直系へと受け継がれました。後世の首相を務めた細川護熙(ほそかわもりひろ)氏は、この細川家の末裔にあたり、光秀の血を引く遠い子孫のひとりです。
【大河ドラマでも話題|現代人が惹かれる“明智光秀像”とは】
現在放送中のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、要潤さんが実に魅力的な明智光秀を演じています。評価のポイントはどこなのでしょうか。
■「苦悩する中間管理職」という立場への共感
ドラマでの光秀は、足利義昭(尾上右近さん)の命により、信長の家臣となります。カリスマ的で天才肌、常軌を逸した要求を突きつける上司(織田信長)と、伝統的な秩序を重んじる旧勢力(朝廷や足利将軍家)との間に挟まれて、奔走する光秀の姿は、現代の「優秀な中間管理職」の苦悩そのもの。理不尽な状況に耐え、実務を完璧にこなしながらも、最終的に重大な決断を下さざるを得なかったプロフェッショナルとしての姿が、多くの人々の共感を呼んでいます。
単なる「悪人」や「野心家」ではなく、光秀なりの正義や未来へのビジョン、あるいは追い詰められた末の葛藤の果てに、あのクーデターがあったのではないか…。こう考えることで歴史ドラマはますます面白く観られるのではないでしょうか。
■明智光秀忌のポイントまとめ
Q. 明智光秀忌はいつ?
一般には6月14日に営まれています。滋賀県大津市の西教寺では毎年この日に光秀忌が行われています。
Q. 「敵は本能寺にあり」は本当に言った?
その言葉を記した同時代の一次史料は確認されておらず、後世の軍記物語によって広まったと考えられています。
Q. なぜ「三日天下」と呼ばれる?
実際には光秀が敗れるまで約13日ありますが、「三日」は「ごく短い期間」のたとえとして使われています。
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光秀が『本能寺の変』に至った理由は、日本史上最大のミステリーといわれています。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、その顛末が今後どのように描かれるのでしょうか。単なる「裏切り者」ではない光秀の実像を知ることで、展開がますます楽しみになってきました!
- TEXT :
- Precious.jp編集部
- 参考資料:『日本国語大辞典』(小学館) /『デジタル大辞泉』(小学館) /『日本大百科全書 ニッポニカ』(小学館) /『世界大百科事典』(平凡社) /宗教法人 西教寺(http://saikyoji.org) /讀賣新聞「今や「名君」明智光秀、440回忌法要「後世に功績語り継ぎたい」」(https://www.yomiuri.co.jp/culture/20210615-OYT1T50076/) /福知山光秀ミュージアム「第1章 明智光秀 謎に包まれた戦国武将の生涯」(https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/mitsuhidemuseum/18089.html) /いがいと! 福知山「光秀特別大使クリス・ペプラーさんに「光秀感謝状」を贈呈」(https://www.city.fukuchiyama.lg.jp/site/promotion/33215.html) :

















