名キャラクターが登場する、シリーズ物の小説のなかでも、世界一の人気を誇るシャーロック・ホームズ。もはや新しい物語など生まれようがないと思っていたら、なんと新作が刊行された。もちろん作者は別人だが、まるでコナン・ドイルが憑依したかのような筆致で、ページをめくるのが楽しい。無類のシャーロキアンとして知られるメンズプレシャスの連載「お洒落極道」で人気の、島地勝彦(作家・バーマン)が、その魅力を説く。
きみは見ているが観察していない
わたしの読書好きは中学時代から本格的に始まった。学期末試験の前夜、新潮社から発売されたばかりの『シャーロック・ホームズ全集 シャーロック・ホームズの冒険』と教科書を机の上に一緒に並べ、交互に読んでいた。
当然のことながら、無味乾燥な内容の教科書は、戦前戦後を代表する翻訳家=延原 謙の名訳で書かれた探偵小説に完敗した。
まだ、フルボディの女の味を知らなかった少年シマジは、ホームズが生涯で唯一懸想したと言われる女性=アイリーン・アドラーの物語に没頭したものである。
さて、今回紹介する本書は、80年ぶりのシャーロック・ホームズの作品である。
といってもコナン・ドイル(Conan Doyle)が書いた幻の遺稿が発見されたわけではない。
コナン・ドイルの著作権を管理するコナン・ドイル財団が公式認定したホームズ物である。
はっきりいってしまえば、コナン・ドイルが乗り移った1955年生まれの作家・アンソニー・ホロヴィッツが書いた物語だ。
小うるさいシャーロキアンたちなら容赦なく切り捨ててしまう部分も多々あるだろうが、わたしはこみ上げてくる懐かしさにすっかり魅了されてしまった。
本書を執筆するにあたり、著者ホロヴィッツは十箇条のルールを自らに課したという。
たとえば「度が過ぎた派手なアクション・シーンはいらない」「ホームズとワトソンの関係に同性愛を持ちこんではならない」さらには「本書の宣伝のために鹿撃ち帽をかぶったりパイプをくわえたりしている姿を撮影させることは断じてしない」等々。
とはいえ徹底的に19世紀らしい文章表現で書かれた本書においては、高い精神性で結ばれたホームズとワトスンの崇高な友情は健在だし、情景描写も絶妙で、馬車が走る音がページから聞こえるようである。
十箇条の第九条「ホームズ物語の主な登場人物を積極的に、なるべく意表をつく形で入れる」の言葉通り、あの懐かしいホームズの宿敵=モリアーティ教授が、まさに、意表をつく形で登場する。巻頭の「主な登場人物」リストにも記されていないモリアーティ教授が、どこでどのようにこの物語に関わるかは、本書を最後まで読んだ人にだけ残された楽しみとして、今は秘密にしておこう。
物語全体は、老来の身として老人施設のベッドに身を置くようになったワトスンが執筆したという設定。
そこでワトスンが思い出しているのは、ある美術商を巡る事件だ。この中でワトスンは件の美術商から挑戦の言葉を投げかけられるが、それに対して切り返す言葉が出ない。
そして「ホームズがここにいれば」と失望感にさいなまれつつ、ホームズから何度となく繰り返し言われていた、名探偵の心得とも、推理小説史上に残る名言ともいえる言葉を思い出す。
「ワトソン、きみは見ているが観察していない」ホームズは一滴の水を見れば、推理によって大西洋の存在を導きだせる男なのだと、ホームズへの深い尊敬と愛情の入り交じった思いとともに。
- TEXT :
- 島地勝彦 お洒落極道
- BY :
- MEN'S Precious2013年秋号、巻頭コラムより