英語のアンビション(ambition)という名詞は、日本では「野心」と訳されるため、必ずしも歓迎される表現とはいえない。協調性がなにより尊ばれる日本社会では、この言葉に抜け駆け的なニュアンスを感じてしまうのかもしれない。しかし、米国のような競争社会ではアンビションは非常にポジティブに捉えられている。上を、上を目指す、脱落しても再チャレンジしていく。そういう生き方を米国人は文句なく好きだからだ。

 ’80年代、ニューヨークのアートシーンにスプレーペンキを持って現れた天才黒人アーティスト、ジャン=ミシェル・バスキアは、まさにアンビションの塊のような若者であった。

Jean-Michel Basquiat

ジャン=ミシェル・バスキア●1960年12月22日生まれ。1988年8月12日没。ニューヨーク、ブルックリンの生まれ。20世紀のアート界を席巻した、落書きアート界の風雲児。彼の作品は今でも多くの人々に影響を与え、本編連載のイラストレーター、木村タカヒロ氏もそのひとりだそうだ。1983年からアンディ・ウォーホルと作品を共同製作するなど、名声を確実なものとしたバスキアだが、1987年のウォーホルの死の翌年、薬物が原因で死去する。
ジャン=ミシェル・バスキア●1960年12月22日生まれ。1988年8月12日没。ニューヨーク、ブルックリンの生まれ。20世紀のアート界を席巻した、落書きアート界の風雲児。彼の作品は今でも多くの人々に影響を与え、本編連載のイラストレーター、木村タカヒロ氏もそのひとりだそうだ。1983年からアンディ・ウォーホルと作品を共同製作するなど、名声を確実なものとしたバスキアだが、1987年のウォーホルの死の翌年、薬物が原因で死去する。

 1960年、バスキアはニューヨークのブルックリンに生まれる。ファッションデザインに興味を持つ母がバスキア少年を連れ回す先は、地元のブルックリン美術館。バスキアはアートへの興味を膨らませるが、家や学校になじめず、家出を繰り返し、1978年には完全に家を出てしまう。友人アル・ディアスとSAMOというユニットを組み、最初のアート活動であるグラフィティ(落書き風ウォールペインティング)をダウンタウンの壁に描きだす。生活は、コラージュで作成したポストカードやTシャツを売り、糊口をしのいでいた。「有名になりたい」というただひとつのアンビションを支えに……。

 だが、時代は確実にバスキアを待っていた。

 ’70年代までは美術館が支配していた美術界。そこにギャラリーという新勢力が殴りこみをかけてきた。アートの動きに敏感で、機動力があるギャラリーオーナーたちは、※1ジュリアン・シュナーベル、キース・ヘリングといった、感覚が新しく、急増していたニューリッチの美術収集家受けするアーティストの作品を次から次へと買っていった。才能ある若手画家に目をつけ「先物買い」をするその流れにバスキアも乗った。即興的で落書き風、まるで子供が描いたようなバスキアの絵は、落書き風であるがゆえに言葉のメッセージが添えられている。作者本人にしかわからない言葉の場合も、社会批評と捉えられるようなスローガンの場合もある。ストリートカルチャーが室内に越境してきたようなスタイルは、アートファンや収集家ばかりではなく、ひとつのカルチャー現象として話題になった。

 1980年の合同展覧会「タイムズ・スクエア・ショウ」への参加を皮切りにバスキアの人気はうなぎ上り。※2ブルーノ・ベルガーや※3アニナ・ノセイらの辣腕ギャラリーオーナーの力もあり、1点100ドル単位だった作品が、瞬く間に数万ドルで取引されるようになる。一夜にして大金持ちになったバスキアは、それでもなにかが満たされていなかった。それを埋めたのが、ニューヨーク・アート界の大立者アンディ・ウォーホルだった。

 ふたりは顔見知りだったものの、本格的な友情に発展していったのは’83年、バスキアがウォーホルの雑誌「インタビュー」の広告ディレクター、ペイジ・パウエルを通じてコンタクトをとってからだった。当時影響力に陰りがみえてきた55歳のウォーホルにとってバスキアの若い才能は魅力的だった。バスキアとしても、金の匂いが鼻につくギャラリー関係者ではない、アート界の先駆者に自分を理解してもらいたかったのだ。展覧会のオープニング、カルチャー・イベント、夜のクラブとふたりは常に一緒。親子ほど歳の離れたこのふたりのアーティストは、ウォーホルが実際の父のような気のつかいかたをしていた。なにしろバスキアはウォーホルが用意したアトリエにうつり、残りの人生もそこですごしているぐらいなのだから。

Hit the Road! Quick!

 このコンビは、1985年の合作展覧会で頂点を迎えるはずだった。ふたりがボクサー姿で写っているポスターはあまりに有名だ。しかし、批評家たちのレビューはさんざんだった。ショックを受けたバスキアはウォーホルのもとを去る。転がり落ちだした運はもうもとにもどらない。その2年後、バスキアにとって唯一の真の理解者ウォーホルは57年の生涯を閉じる。

 その悲しみは、合作展覧会の失敗以降ますますひどくなっていったバスキアの麻薬依存を加速した。アンビションを超えた、その先にある友情というダンディズムを失ったバスキアも後を追うように翌年オーバードーズで死んでいく。突風のように描き残した絵画とデッサン、合わせて2000強を残して……。

※1画家・映画監督。映画『バスキア』の監督。 ※2チューリッヒ在住のアート・ディーラー。 ※3ギャラリーのオーナー

この記事の執筆者
TEXT :
林 信朗 服飾評論家
BY :
MEN'S Precious2015年春号 ダンディズム烈伝より
『MEN'S CLUB』『Gentry』『DORSO』など、数々のファッション誌の編集長を歴任し、フリーの服飾評論家に。ダンディズムを地で行くセンスと、博覧強記ぶりは業界でも随一。
クレジット :
イラスト/キムラタカヒロ