どんなに速いスーパーカーも、実質ビスポークのラグジュアリーサルーンも、ヴィンテージ・カーには敵わない。手仕事の領域の多かった時代のクルマは、デザイン、走り、室内の雰囲気、すべてに味があり、時を経ても魅力は色褪せるどころか、輝きを増していく。もちろんメンテナンスフリーのわけはなく、維持する手間と費用は相当かかるが、そんな名車をガレージで眺めるだけでなく、積極的に走らせる男たちがいる。彼らはオーナーではあるが、決して自分本位ではない。年を追うごとに数が減っていくヴィンテージ・カーを次世代へ継承していくために、一時預かり人の気持ちで所有しているのだ。これぞ、真のラグジュアリーである!

一時預かり人として未来を見据えて活動する

ロールス・ロイス『25/30HPスポーツサルーン』
ロールス・ロイス『25/30HPスポーツサルーン』

 本来、「ヴィンテージ・カー」とは、第一次世界大戦が終了した1918年から1930年までの間につくられたモデルのことを指す。本稿では広義に解釈し、手仕事の領域が大きかった時代のクラシックカーの総称とするが、いずれにしても姿や中身を細部に至るまで寸分違わずつくり込んだとしても、現代のレプリカをそう呼ぶことはない。そのクルマが生き長らえてきた時間、様々な人々の手で受け継がれてきた歴史を含めて、初めて「ヴィンテージ・カー」と呼ぶことができるのだ。

  上の写真の1937年型ロールス・ロイス『25/30HPスポーツサルーン』を始めとするロールス&ベントレーの世界的なコレクターとして知られる涌井清春氏は、自身を一時預かり人と呼ぶ。

「自動車の歴史自体は100年ほどのものですが、しっかりとメンテナンスしてやれば人よりも長生きしますからね。私は20世紀の貴重な文化遺産を一時的に預かり、楽しませてもらっているに過ぎないと考えています。そして自分が乗れなくなったときには、然るべき人を見つけて引き継いでいく。それが責務です」

 30年ほど前、涌井氏が1960年型のベントレー『S2コンチネンタル』を手に入れたのをきっかけにコレクションを始めた当時は、「日本に売ると、その後どこに行ったかわからなくなる」という理由で、海外のオーナーに取り引きを断られることが少なくなかったという。

 コレクター活動と並行しながら売買を始め、これまで550台以上のロールス&ベントレーを扱ってきた今、当時言われたことが身に染みてわかるようになったと、氏は語る。

「われわれ専門業者がメンテナンスの腕を磨くと同時に、乗り手の皆さんも経験を積んで目利きになった。今や日本にあるクラシックカーの品質は世界に誇れるほどになりましたが、実は今度は、かつてと逆の現象が起きています。何らかの事情で海外へ売られた場合、それはもう二度と戻ってはこないのです」

 いわば、日本の旧車文化が成熟してきた証でもあるのだが、涌井氏は美しい名車を次世代へつなぐための新たな取り組みも行っている。

「1965〜’80年まで生産されていたロールス・ロイス『シルバーシャドウ』は日本にも数多く輸入され、今も多くがガレージに眠っています。私はそれをよみがえらせて、新たな乗り手に案内しています」

「ビスポーク・プログラム」と名付けたそのサービス、納車まで数年かかるそうだが、それを承知でオーダーする紳士は後を絶たないという。

「街を走る姿を見て若い人たちが憧れてくれれば、旧車文化はいっそう成熟していくでしょう」

次の章では、時代や個性も様々な「ヴィンテージ・カー」の乗り手が登場する。彼らの姿を通して、本当の贅沢とは何かを感じとっていただければ幸いだ。


創業者の魂を宿すコクピットに座り、ジェントリィの真髄を知る

乗り手にも品格が求められるジャガー

エレガントな曲線を描く『XK120』。
エレガントな曲線を描く『XK120』。

 家の裏庭にあるガレージで、職人がクルマを組み立てる。英国にはかつて、「バックヤードビルダー」と呼ばれる、小規模・少量生産の自動車製造業者が多数存在した。吉田松男氏の邸宅に隣接するガレージは、そんな伝統的な風景に似ている。

「もともと倉庫として使っていたものを改造しました。バーカウンターをつくって、仲間内でのちょっとしたパーティにも使っています」

 少年時代、すでにジャガーのミニカーで遊んでいたという吉田氏。32歳で『Eタイプ』シリーズ1のロードスターを手に入れて以来、ジャガーへの愛情はますます強いものとなり、やがてその精神的な部分にも惹かれるようになったという。

「ジャガー」は、「ロールス・ロイス」や「ベントレー」のような『貴族』ではありません。僕はそこに大きな魅力を感じたんです」

 吉田氏の言う「貴族」とは、「プレミアム・カー」ブランドのこと。1922年、ウィリアム・ライオンズという青年がサイドカーの製造に着手したことから始まった「ジャガー」は、創業時から貴族や富裕層に向けたプレミアムなクルマをつくっていた「ロールス・ロイス」「ベントレー」とは違う。しかし、より手に入れやすい価格で、上位の「プレミアム・カー」にもひけをとらない性能を実現したその道のりには、庶民でありながら、研鑽を重ねて貴族たらんとしたジェントリ階級の姿が重なって見える、と吉田氏は言う。

「ライオンズがデザインしたクラシック・ジャガーに乗っていると、乗り手にも品格を求めるというか、『競い合うにしても品性下劣な行為はするな』という強い意志を感じます」

 吉田氏のガレージには、下の写真の『XK120』に加えて、『SS100』(1938年式)、普段使い用の先代『XJ』と、様々な時代のジャガーが並ぶ。「ほかにも数台のクラシック・ジャガーを持っていて、今はレストアに出しています。オリジナルの状態に近づけないと気が済まない性質で、そのために手間がかかるのはつらくないし、むしろ楽しんでいます」

 徹底したメンテナンスによって、愛車はどれもコンクール・コンディションに保たれているが、それは見せることが目的ではなく、あくまでも普通に走れるようにするためだ。

「街乗りはもちろん、数百kmに及ぶロングドライブでもまったく不安はありません」

 実際、吉田氏は取材直前、『XK120』を駆って、名古屋から石川、新潟、長野など6県を巡る「ジャパンクラシックツアー 2016」に参戦してきたばかり。

「あいにく、行程の大半が雨模様。ボディの隙間から雨水が入り込んで、フロアに溜まってしまいましたが、焦ることはなかったですね」

悪天候に見舞われても、平常心を保って走り抜く。「ヴィンテージ・カー」には、心を磨く力がある。


先達の遺志を受け継ぎながら、焦らずに愉しむ

受け継ぐのは、ある種の義務である

ブルー・ダイヤモンドのエンブレムが輝く『ナイン・ブルックランズ』は、1,100㏄のOHVエンジンを積むスポーツカー。
ブルー・ダイヤモンドのエンブレムが輝く『ナイン・ブルックランズ』は、1,100㏄のOHVエンジンを積むスポーツカー。

 ライレーは、1899年に創業した英国の老舗。すでに自動車生産からは撤退しているが、全盛期の1920年代につくられたスポーツカーが、『ナイン・ブルックランズ』だ。日本に取り寄せたのは、自動車雑誌「カーグラフィック」の創始者である故・小林彰太郎。現在は息子の大樹氏に受け継がれ、小林家のガレージの定位置で羽を休めている。

「今はナンバーがないため公道は走れませんが、年に1度、サーキットまで牽引して走らせています」亡き父からヴィンテージ・カーを受け継ぐなんともロマンティックな話だが、それを最良の状態で維持し続けるための手間は相当なもの。しかも大樹氏が受け継いだものはほかにもある。故人のライフワークでもあった、日本最古のサーキット「多摩川スピードウェイ」の研究・保存活動など、様々な場面でその遺志を守り続けているのだ。

「受け継ぐのはある種の義務。焦る必要もないし、老犬を可愛がるように愉しめればと思っています」

 そう語る大樹氏自身、古いアルファロメオやフォーミュラカーを所有するエンスージァストだ。父から受け継いだクルマはほかにもあり、最近はなかなか自分のクルマに構ってあげる時間がとれないのが悩みの種だというが、それは彼が、遺されたものの価値をだれよりもわかっていることの証でもある。


華やかなりし芸術の時を想い、駆け抜ける

純粋に格好よさを追求した時代のクルマ

アルファロメオ公認のヒストリック カー・チーム、スクーデリア・デル・ポルテッロが所有していた、由緒正しき個体。
アルファロメオ公認のヒストリック カー・チーム、スクーデリア・デル・ポルテッロが所有していた、由緒正しき個体。

「イタ車って、完全に女性ですよね。このクルマも、お尻まで続くアールがとても美しい。造形した職人の腕もいいんだと思います。『イタリア人は皆、ミケランジェロの子孫』っていうことわざがありますが、まさにそのとおりだと思います」

 真北氏は、広告を中心としたベテランのアートディレクターだ。デザインのプロにこう言わしめるほどの『ジュリエッタ』シリーズは、1954年に誕生した。デザインしたのは、ベルトーネ(スプリント=クーペ)、ピニンファリーナ(スパイダー:製造も)といった、イタリアの名コーチビルダー。まだクルマが「一品もの」であった古きよき時代の香りを色濃く残す。

「空力や効率よりも、純粋に格好よさを追求した最後の時代ですね。同じクリエイターとして憧れます。またデザインだけでなく、革やアルミといったマテリアルの質感やディテールにお国柄が反映されているのも、この時代のクルマの面白さです」

 真北氏の『ジュリエッタ・スプリント』は、出力を増強した『ヴェローチェ』。ヒストリックカーのイベントにも積極的に参加し、軽快かつ情熱的なフィーリングを堪能している。「現代のクルマと違ってストレスフリーではないけど、それがまた楽しいし、音もいい。ガレージからこのクルマがいなくなったら、人生はつまらなくなってしまうでしょうね」


欧州の最高を経て、日本車の魅力を知る

やっとつくり手の想いがわかるようになった

全高はわずか1,165㎜。高速道路が普及する時代を見据えてデザインされた。現在、ガレージには2台のロータスF1が収まっている。
全高はわずか1,165㎜。高速道路が普及する時代を見据えてデザインされた。現在、ガレージには2台のロータスF1が収まっている。

少年時代、雑誌で見たJPSカラーのロータスF1に心を奪われたという久保田氏。

「15年ほど前に観戦したモナコのヒストリック・グランプリで、『いつか表彰台の中央に日の丸を!』と、一念発起。40歳を過ぎてからレース活動を始めました」

 過酷なトレーニングで体を鍛え、実戦経験を積んだ久保田氏は、8年かけて探し出し、手に入れた初恋のロータス『72』を駆り、2014年、モナコで夢を実現させた。日本人の優勝は、氏が初めてである。自宅のガレージには、そのロータスを含め、常に複数のスポーツカーが待機している。なかでも特に存在感を放っているのが、独創的なツインローター・エンジンを内包した『コスモスポーツ』だ。

「『コスモスポーツ』は改造された個体が多いのですが、これは新車当時のオリジナルの状態を保っています」

 レース活動を通じて自動車文化の本場、欧州の最高を体験したことが、日本車の魅力を再発見することにつながったという。「性能や品質は当時の欧州車に遠く及びませんが、乗ると、エンジンやボディから、戦後の何もない時代に奮闘したつくり手の想いがひしひしと伝わってくるんです。10年前なら、そうは思わなかったでしょう。いろんなクルマに乗ってきたからこそ行き着いた。そんな気がします」


愛すべきすべての名車に「黒」をまとわせる

古いクルマだからこそ似合う色がある

手仕事の領域が大きかった『280SE 3.5L クーペ』は、実に贅沢なクルマ。
手仕事の領域が大きかった『280SE 3.5L クーペ』は、実に贅沢なクルマ。

 海とクルマを愛し、サーフボードを積むために「フォルクスワーゲン」『ビートル』を手に入れた。人や荷物を満載しても楽しく走れるようにと、独学でチューニングやカスタマイズの腕を磨き、やがてそれが仕事になった。今や世界中に顧客を抱える「フォルクスワーゲン」のスペシャルショップ、「FLAT4」のオーナー、小森氏は、相模湾を望む広大なセカンドハウスに、「メルセデス・ベンツ」「ベントレーポルシェ」「トライアンフ」などの愛車を収めている。ボディカラーは、すべて黒。

「ごまかしの利かない黒は、究極のお洒落。なかでも僕は烏の濡ぬれ羽は色のような、深みと色気のある黒が好きで、この色以外は乗りません。スポーツカーや、クロームを多用した古いクルマにこそ似合う色ですね」

 黒は仕上がりの良し悪しがはっきりとでるため、塗装屋泣かせの色と言われる。そのうえ、ボディパネルの素材、形、厚さなど、すべての条件が整わない限り、小森氏が理想とする色気は再現できないという。

「1971年までのメルセデスは、ハンドメイドでボディの品質が抜群。だから本当に美しい黒になります」

 美しく仕上げたあとも、時間のある限りハンドルを握る。「しっかりと乗りこなして、お金と手間を惜しまず、長くつきあうのが僕の流儀。大事に育てたクルマは、必ず次の世代へと引き継がれます」

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MEN'S Precious編集部 
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MEN'S Precious2016年冬号ヴィンテージ・カー を次世代へつなぐ男たちより
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撮影/柏田芳敬、尾形和美 文/藤原よしお、佐藤篤司 構成/櫻井 香 取材協力/ワクイミュージアム ☎03・3811・6170