第二次世界大戦後のイタリアン・テーラリングの歴史は、「ブリオーニ」を中心に歩んできたと言っていいだろう。「ブリオーニ」は、終戦直後の1945年にローマで創業した。凄腕仕立て職人のナザレノ・フォンティコリと、当時、やり手の販売員として海外にも名の知れたガエタノ・サヴィーニのふたりによって誕生したのだ。
筆者がヴェネツィア在住時、初めて出合った「ブリオーニ」の本
1998年、筆者はヴェネツィアに住んでいた。
ご承知のように、ヴェネツィア本島の公共交通機関は、ヴァポレット(船)しかない。そのため、主な移動は歩き。日常の買い物も、バーカロで一杯やりに行くのも歩きだ。東京の足早の生活では、見過してしまうことも多いが、ヴェネツィアに滞在していたころは、特に興味のない店までも、刺激的に見えた。徒歩の生活は、時の流れがゆったりとし、島のディテールを眺めるにはうってつけだったのだ。
よく立ち寄っていた数軒の本屋も、ゆっくりと時間が流れていた。古本屋に入ると、掘り出し物を目当てに、本棚やワゴンに収まった背表紙や表紙をいつまでも眺める。新刊本を揃える書店では、日本にはまず入らない雑誌を手に取り、時を忘れて情報を入手していた。
ある日、いつもの本屋で、「ブリオーニ」の小さな本に出合った。「モードの記憶」と題したシリーズのひとつに、「ブリオーニ」の本がラインナップされていた。オクターヴォというイタリアの版元で、すべてイタリア語で書かれ、英語の併記はなし。いま振り返ると、これがイタリア語のいい勉強になった。通っていた語学学校の帰りはいつも、テラスのあるバールに立ち寄り、生のイタリア語に接していた。そのかたわらで辞書を引き、この本から「ブリオーニ」の歴史は学んだようなものだ。全体の半分近くは、「ブリオーニ」のアーカイブ写真で割かれ、すんなりと歴史の流れを俯瞰できたのもよかった。とくに、身になった記述は、巻末の「ブリオーニ」の年表。ブランドの転機となった大小の出来事が明解にまとめられている。
この本のほかに、筆者の書架にはもう1冊「ブリオーニ」の本がある。『Brioni FIFTY YEARS OF STYLE』という書名で、版元は同じくオクターヴォ。これは、イタリア語版ではなく、英語版の分厚い本である。
大判の本書は、“ブリオーニ50年の歴史”がびっしりと収められている。そのなかで、筆者がいつも気になるページが、1950年代頃の秀逸なスタイル画。「ブリオーニ」のエレガントなクラシックスタイルが、現在につながっているのだ。“ローマンスタイル”を謳った「ブリオーニ」の服が、ほかの多くのイタリアブランドの服づくりにも影響を与えたのは、多彩なスタイル画を見ていると歴然である。
新刊の『テーラリングレジェンド』を読み解く
筆者の手元にある本は、『LEGGENDA SARTORIALE』というタイトルで、英語版ではなくイタリア語版(※日本での販売は英語版のみ)。しかし、書かれた内容は同じ。
構成は大きく3つのパートにわかれている。第1幕:ローマンスタイル。第2幕:ブリオーニと映画の世界。第3幕:卓越した遺産、となる。
第1幕は、「ブリオーニ」成り立ちのストーリー。膨大なアーカイブ作品を現代に進化させた数々のコレクションが見もの。たとえば、1958年のパープルのタキシードは、2020年のシルクのディナージャケットに変貌する。あるいは、‘60年代のベルトをあしらったショールカラーのジャケットは、2014年のスーツにそのイメージが継承されている。アーカイブ作品はスケッチや写真で残し、進化した新しい「ブリオーニ」のスタイルは、モデルが着用した写真で見せる。これでもかというほど名作が登場し、爽快である。
第2幕は、いわば「『ブリオーニ』とハリウッドとの蜜月」といった感じだろうか。世界的なハリウッドスターとのコラボレーションを、ブランド発祥のころから見せる。往年の名優たちの名前を挙げると、ゲーリー・クーパー、クラーク・ゲーブル、ピーター・セラーズ。現代のスターでは、ダニエル・クレイグ、トム・クルーズ、ブラッド・ピットらと、錚々たる顔ぶれだ。これは余談だが、2月に開催された、第94回アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞した濱口竜介監督が会場で着用していたタキシードは、「ブリオーニ」だった。
さて、最後の3幕は、「ブリオーニ」の真髄である服づくりの理論的な話。ブランドの心臓部といえる、アブルッツォ州ペンネに構える生産工場での仕事は実に緻密だ。寸分たがわぬ型紙の差し込みや、ジャケットのラペルの芯地を形成する、繊細なステッチの八刺しも鮮やかである。ボタンホールの縫製など、すべてにおいて手仕事による技術を、たっぷりと披露する。
本書のほぼ終わりのページで、バラク・オバマ元アメリカ大統領の印象的な写真がある。2009年10月、フロリダでソーラーパネルを創設した会場での演説シーン。同氏のネクタイが風になびき、裏側の“Brioni”のタグを瞬時に写した一葉だ。
「ブリオーニ」は、決して古びることのないクラシックなスタイルの世界を、つねにアップデートしながら独自の服づくりを貫く。だからこそ、ここ一番の晴れの舞台で、「ブリオーニ」の服が選ばれる。高い技術に裏打ちされた服づくりと、エレガントなスタイルの醍醐味が詰め込まれた1冊、それが『テーラリング・レジェンド』である。
- TEXT :
- 矢部克已 エグゼクティブファッションエディター
Twitter へのリンク