太い眉毛にギョロッとした大きな瞳、一度見れば深く脳裏に焼きつく顔立ち。イタリアのファッション関係者たちの間で、現在のイタリアンモードの礎を築いた男といわれる、ファションデザイナー、ウォルター・アルビーニの相貌である。

イタリアンモードの礎とは何か。アルビーニとはだれなのか……。

 アルビーニは、1941年イタリア北部ロンバルディア州ブスト・アルシジオに生まれる。トリノのファッションデザイン学校を卒業すると、'61年にパリに渡り4年間を過ごす。その間にココ・シャネルに会い、'30年代のシャネルのデザインに傾倒する。'63年には、初めてのコレクションを発表。後のイタリアでの活躍を予測させる早熟な才能は、ここから開花していったのだろう。パリでクリツィアのデザイナー、マリウッチャ・マンデッリに会ったのをきっかけに、3年間仕事を共にする。クリツィアでは、服だけではなく、糸、生地、ボタンなどパーツのデザインまでを実験的に開始した。

ウォルター・アルビーニ

1941年イタリア北部ブスト・アルシジオ生まれ。本名はグアルティエロ・アンジェロ・アルビーニ。20代半ばにパリから帰国して、イタリアンモード発展の原動力となる。42歳で逝去。もしアルビーニが生きていたら……が、ファッション業界の語り種ぐさである。

 優れた職人技が集積するイタリアには、古くから各素材に特化した生産地がある。そのため、第二次世界大戦後のイタリアは、フランスブランドの生産基地としての時代が長く続いていた。デザインはフランスで、製品化はイタリアで、というこの図式を、アルビーニが変えたのだ。

 世界に冠たるイタリアンモードを目ざし、生地からボタンの細部にいたるまで、本格的なデザインに着手する。それと同時に、ジャケット、シャツ、パンツ、セーターなどをつくる各専業メーカーに、最新のデザインを供給する仕組みを切り開いていった。

 アルビーニと仕事を共にし、現在もアルビーニの服をコレクションしている、イタリアファッション界の重鎮マリーザ・クルティは、こう回想する。

「強烈な個性と創造力を持った、デザイナーでした。電車で、クルマの中で、いつもノートに何かアイディアを描いていました。ファッションのデザインに留まらず、森羅万象を創造する天才でした」

 アルビーニは、各メーカーに自身が描いたデザイン画を渡して生産を任せ、各アイテムを取り寄せて、トータルルックで展開できるブランドの構築に成功する。それによって、さらに生産力を上げアトリエにいる腕利きの職人たちの仕事を、夢のあるファッション製品に結実させたのだ。イタリアのメーカーにいた、デザイナー、パタンナー、モデリストといった、個々の服づくりのスペシャリストたちに、より創造的な仕事を実現させ、'70年代のミラノにイタリア発信のファッションムーブメントを起こすことになった。

 それが、イタリアで今もトータルルックのマエストロ、贅沢なプレタポルテを生んだ男と呼ばれるゆえんである。マリーザ・クルティが続ける。「デザイン画は、エレガントで群を抜いていました。もちろん、自身のエレガンスをも極めたデザイナーでもありました」。

 アルビーニのもとから巣立った有名なデザイナーはいないが、アルビーニの仕事の方法は継承された。ジョルジオ・アルマーニ、ジャンフランコ・フェレ、ルチアーノ・ソプラニといった、後のトップデザイナーたち。新しい才能を持ったデザイナーがミラノに集結し、'70〜'80年代のイタリアンモードの爆発的な発展の原動力となっていったのだ。

 アルビーニは、タイドアップやスカーフを巻くなど、襟元のエレガンスにこだわり、ゆったりとしたシルエットの'30年代のスタイルを極めた。その伊達男ぶりは、後にスタイルのアイコンとして、若手デザイナーやファッション関係者たちにも、影響を与えていった。かくして、この伊達男のスタイルも、永遠にイタリアファッション界に刻まれたのである。

この記事の執筆者
TEXT :
矢部克已 エグゼクティブファッションエディター
BY :
MEN'S Precious2014年夏号 イタリア3大伊達男の伝説より
ヴィットリオ矢部こと本誌エグゼクティブファッションエディター矢部克已。ファション、グルメ、アートなどすべてに精通する当代きってのイタリア快楽主義者。イタリア在住の経験を生かし、現地の工房やテーラー取材をはじめ、大学でイタリアファッションの講師を勤めるなど活躍は多岐にわたる。 “ヴィスコンティ”のペンを愛用。Twitterでは毎年開催されるピッティ・ウォモのレポートを配信。合わせてチェックされたし!
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