ダンディの、いわば起源としてその名が語られるのは、18世紀末〜19世紀初頭に英国社交界で一世を風靡したジョージ・ブライアン・ブランメル。ボウ(=洒落者)・ブランメルとも称された彼は、現代の紳士のドレスコードに繫がる装いを生み出したといわれる。かつらをやめ、華やかさではなく洗練を愛したそのスタイルは、フランスでは伝統や慣習を破壊するものとして、若い世代や芸術家に支持された。それとほぼ同時代の日本・江戸。当時世界随一だった大都会では、それまで大坂や京都など上方主導だった文化において、江戸発のものが数多く生み出されていった時期でもあった。その主たる担い手は、富を持ち、台頭し始めた町人たち。やがてひとりの戯作者が出現する。山東京伝、商人の息子として生まれた彼は北尾派の浮世絵師として活動する一方、当時狂歌師そして戯作者として知られていた大田南畝に作品が認められ、洒落本・黄表紙の作家として活躍する。ゆえに質素倹約を標榜した寛政の改革では幕府より手鎖50日の処分を受けた。それはボウ・ブランメルが大学を卒業し社交界デビューする数年前のことだった。

吉原や深川等の遊里に遊ぶ男などを主人公にした洒落本や黄表紙。京伝の洒落本には、遊郭での心得として、次のような記述がある。「ゑもんをつくろい帯をなをしあせ手拭などをゑりにまくはいやみなり(過度に服装をいじったり飾ったりするのは嫌味なもの)」(『息子部屋』)。

通人のダンディズム

山東京伝は1761 年、伊勢出身の商人・岩瀬伝左衛門の長男として深川木場に生まれる。本名は伝蔵。北尾重政に浮世絵を学び、政演と号し多くの黄表紙に浮世絵を描き、そこから戯作者としても活動を始める。洒落本『息子部屋』、黄表紙『江戸生まれ艶気の樺焼き』など遊里を描いた作品で一躍流行作家に。寛政の改革では禁令に反した咎で謹慎。その後京橋に煙草入れの店を開業し、家業の傍ら著作を続けた。曲亭(滝沢)馬琴らが京伝に師事した。1816年没

ここにはブランメルが口にしたといわれる寸言「街を歩いていて、あまりによく見られている時は、君の服装は凝りすぎているのだ」に通じる感覚がある。「山東京伝が作品で描いた存在に、通人というものがあります」。このように話すのは、『山東京伝│滑稽洒落第一の作者』(ミネルヴァ書房)にて、山東京伝の生涯を追った日本文学者の佐藤至子氏。京伝が作品で描いた通人と、ブランメルが体現したダンディとは、まず服装において、似たところがあるという。「1783年に出版された『客人女郎』という黄表紙の中で、京都から江戸にやってきた浮世絵師・白後に太鼓持の五通という人が、いろいろと江戸の流行を話すのですが、その五通が提案するスタイルというのが、髪は吉原本田(本多髷)、羽織は黒斜子という黒っぽい当時流行りの斜子織、小袖は鳶色縮緬のちょっと渋い色味で、下着は嶋縮緬か黒手八丈または風通など(表と裏で模様が違って見えるもの)という、全体としては地味な組み合わせなんです。帯は白茶緞子や黒緞子でちょっと細め、幅が広いのは木戸め〞、劇場の前でお客さんの呼び込みをする人を木戸芸者といいますが、木戸芸者っぽくてよくないと五通は言っています」

ブランメルが青い上着に黒の長いトラウザーズをあわせるような、一見地味な服装を好んでいたように、京伝が描いた通人たちも、黒を基調に、渋い色味の装いとなっている。さらにブランメルがのり付けされた白いネッククロスにこだわったように、通人もまた帯の幅や結び方といったディテールにこだわりを見せている。京伝のこうした詳細な記述には驚かされるが、さらに黄表紙には絵も併せて描かれている。佐藤氏は京伝を「優れた観察者」と評する。「京伝は自分ではなくて、知り合いの旦那衆の中で通人と思われる人を作中に登場させて、こういうファッションがおしゃれだよと伝えていく感じです。同時代の人々の好みとか美意識を細やかに汲み取っているんです」

そして通人が備える「粋(いき、すい)」とは服装などに限らず、立ち居振る舞いや意識などにも表れる。「京伝が最初に書いた洒落本である『息子部屋』、これは遊郭でどう振る舞えばよいかという話なんですが、その中に粋な態度について描かれています。遊女が隠していることをたまたま知ってしまったとしても知らないふりをする。遊女の不実があってもごたごた言わずにさっぱり切れてしまう。そして自分の誠実さを示すことで相手の誠実を得ることが粋だと言っています。惚れてもいないのに惚れたふりをしたり、口先だけ面白く言って遊女を夢中にさせるのは、すい(粋ではない、それは遊び人のふりをしているだけだとも」

さらに、京伝が作品中で区別する「あな知り」と「わけしり」について、佐藤氏は言及する。「遊郭の事情や、遊女についての細かなことを詳しく知っていて、それらをいちいちアピールするのがあな知り。わけしりというのはそういうことを十分知った上で、客色地色はつなじみあるひは切レ引キまでよくさばく、つまりどんな状況でも大人の振る舞いができることです。あな知りにはなりやすいけど、わけしりになるのは難しい、そして、わけしりこそ通人、なんです」

人の機微に通じながらも、穏やかにそれをやり過ごすこと。それが粋であり通であるとされる。とかく個人のありように帰着しがちなダンディズムを超えた、人慣れした江戸の町人文化ゆえに生まれた態度といえるかもしれない。

こうした通や粋、洒落への追求がたどり着く境地とは。それを京伝は自身を主人公に描いている。寛政の改革で罰を受ける年に出版された『世上洒落見の絵図』がそれだ。「この中で、京伝は黄表紙などを面白く書くために洒落についていろいろと考えています。あるとき、不思議な神様に、不思議な世界へと連れていかれます。そこには土でも、木でも、石でもない塊がいっぱいあって、これは何かと聞くと、それは洒落が固まったものだと神様は答えます。それらは、太鼓持や芸者、通人や遊女などが、洒落すぎて、結局わけがわからないものになってしまった姿なんです。そして、いまどきの洒落というのは洒落ではなくて行きすぎであり、どんどん過剰なものになると、洒落でもなんでもなくて、わけがわからない塊になると説明される。黄表紙も、何か面白いもの、新奇なものを描こうとするあまり、洒落すぎて本意を失う、本人は洒落ていないと言っているが見てみろ、と鏡を渡されると、京伝の体も半分塊になっている、というお話です」

そして「過ぎたるは及ばざるが如し、この古語のとおり、味噌の味噌臭きこそ悪けれど、武士は武士臭く、町人は町人臭きがよい」という神様の言葉で結ばれる。この黄表紙においては、洒落が行きすぎた塊が実際に絵として描かれていることも注目だ。本作の数年後、京伝は自身の店をオープンし、自らデザインした煙草入れをヒットさせる。洒落や通の彼岸を、ある種の諦観とユーモアで描ききることで、彼は商人となり、ゆえに戯作者も続けられたのかもしれない。毒舌家を貫き賭けに明け暮れ、晩年は借金のために投獄されたブランメルと、後半生の身の処し方はむしろ対照的だ。確かにブランメルは、ダンディであることに人生を賭した。その一方で、同時期に遥か極東の地にあって、洒落に傾倒することを「過ぎたるは及ばざるが如し」と喝破した京伝。そのしなやかでしたたかな「通というダンディズム」は、江戸の末裔たる私たちにとって、まさに奥義のように映るのだ。

【解説】佐藤至子 (日本大学文理学部教授)
さとう・ゆきこ/ 1972 年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。文学博士。現在、日本大学文理学部教授。専攻は日本近世文学。著書に『山東京伝─滑稽洒落第一の作者』(ミネルヴァ書房)、『江戸の絵入小説─合巻の世界─』(ぺりかん社)、編著に『白縫譚』(国書刊行会)等がある。

この記事の執筆者
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MEN'S Precious編集部 
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MEN'S Precious2015年夏号〝世界同時多発的〟ダンディズム論
名品の魅力を伝える「モノ語りマガジン」を手がける編集者集団です。メンズ・ラグジュアリーのモノ・コト・知識情報、服装のHow toや選ぶべきクルマ、味わうべき美食などの情報を提供します。
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クレジット :
イラスト/早乙女道春 構成・文/菅原幸裕 解説/佐藤至子 (日本大学文理学部教授)
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