1940年に首相の座が運よくまわってこなければ(首相候補の最右翼は、ハリファックス外務大臣だったが、「貴族員議員では議会運営ができない」と辞退)、並とは言わぬが「上の下」ぐらいの政治家で終わっていたのではないか。
なかでも彼の政治家人生最大の危機は、彼が自由党内閣の海軍大臣として臨んだ第一次世界大戦中の、ダーダネルス作戦(1915年2月19日〜1916年1月9日)である。連合軍による同盟国側オスマン帝国のガリポリ半島への上陸作戦であり、軍事的には陸海空三軍の総力を結集して臨んだ、世界初の上陸作戦であった。
ウィンストン・チャーチルに学ぶ3つのキーワード
1.不屈
当時の英国はオスマン帝国側戦力を甘く見てたんだな。およそ1年をかけた上陸作戦は無残な敗走戦に化した。英国軍の死者は2万1255人、オーストラリアなど英連邦から参戦した4か国からは1万2817人が戦死。フランス軍からは約1万人が死亡するという大惨事になった。責任を負った立案者のチャーチルは作戦開始の3か月後に罷免される。
乃木希典が生涯その責任に苦しんだ日露戦争の旅順包囲作戦の日本軍の死者は約16、000名であるから、ダーダネルス作戦の失敗の規模がわかるだろう。「ガリポリ」といえば、今でも英国では失敗作戦と大損害の代名詞である。
家族を失った英国民の怒りは火になって燃え盛る。チャーチルは後に「このとき、わたしはほぼすべてを失っていた」と振り返り、妻のクレメンタインもチャーチルの伝記作家に対しチャーチルが「悶え死ぬのではないかと思った」と語っている。
ところが、習い始めた絵で活力を取り戻したチャーチルは、なんとその半年後の1915年11月、フランドル地方の戦いに参戦するのである。贖罪のための戦いかどうかは知らぬ。ともかくこの元海軍大臣は最前線に赴き、翌年の5月まで指揮をとり、なんと金のために『タイムズ』紙に戦記まで寄稿する。これを「不屈」と言わずしてなんと形容すればよいのだろうか。
2.孤独
ダーダネルス作戦失敗の打撃から回復したチャーチルは、その後病気(盲腸)や選挙での3回の落選を経験するが、またもや不屈の精神を発揮し、そのつど返り咲く。軍需相、空相兼任の陸相、植民相、大蔵相などの要職を歴任するなど、1920年代は素晴らしい時代だった。それが’20年代最後の年、ころっとツキが変わる。
手始めはウォール街の大暴落で財産を失い、復帰した保守党ではインド自治領化に異を唱えたため立場を失う。そして極めつきは、ニューヨークで交通事故に遭うという不運ぶり。彼の政治家生活で最も不遇だった「荒野の十年」の始まりである。「荒野」というのは、もちろん、政治的荒野だ。政府でも党でも要職につけない。いわば政治的プー太郎。
しかし「荒野」は、草木が枯れ果てているがゆえ、見通しがいい。日々の権力闘争に明け暮れている同僚議員には見えない、20世紀最大の嵐の予兆を彼は捉えることができた。ヒトラーの台頭である。
1930年代前半からチャーチルは、下院で何度もヴェルサイユ条約を破棄し、軍備増強にひた走るナチスドイツの脅威を訴えた。ドイツを訪れ、ヒトラーの﹃わが闘争﹄を読み、精度の高いドイツの軍事情報も得ていたが、まったく相手にされない。かえって他議員や新聞から「戦争屋」呼ばわりされるありさまで、完全に孤立してしまった。
当時の英国を覆っていたのは、多大な犠牲者を生んだ第一次世界大戦の後悔が生んだ平和主義、宥和政策であったからだ。
孤立無援。だがチャーチルは自分の情勢分析にいささかの疑いも持っていなかった。ドイツの矢継ぎ早の軍備拡張が明らかになるにつれ、屈辱的なミュンヘン協定(1938年)や当時のチェンバレン首相の対独宥和政策への批判が国民の間で高まりだす。ひとりになってもドイツの脅威を唱えて怯まなかったチャーチルの待望論澎湃として湧き上がってくるのである。
エゴイスト、傲慢、礼儀知らずと批判され続けた男。しかし、第一次大戦も含めた豊富な従軍経験により、軍事と戦争を知悉した男。そして、なにより、英国を愛する男が帰ってきた──。第二次大戦開戦直後、海軍大臣に就任したチャーチルを出迎えた海軍最高首脳の言葉は「閣下、お帰りなさい」であったという。
3.愉楽
そのスピーチと言葉の力、困難や孤立をも耐え忍び、再び立ち上がっていこうとする不屈のウイルパワー(精神力)が政治家チャーチルを際立たせていることを述べてきた。だが、この男を語る際、それだけでは不十分である。「一個人チャーチル」、これがオモシロイのだ。贅沢で、多趣味で、しかもそのどれもが一流。政治家の部分を引っこ抜いたとしても、魅力あふれる男なのである。
それは、ひとつには、英国の英雄モールブラ公爵という貴族のなかの貴族の血を引くという彼の出自に由来するところも大だろう。なにしろ、平時の貴族の生活というのは、会食を中心に格式ある上質な生活を営むことなのだから。それに伴う服装や食事、嗜みとしての狩りや乗馬などにチャーチルが通じていてもなんの不思議もない。
いまひとつは、彼自身の英国好きである。英国の自然、文化、王室そして軍事力を含む国力を何よりも尊ぶチャーチルは、自らがそれを体現する「ミスターブリテン」だと自負していたフシがある。贅沢と多趣味に彩られた彼の愉楽的生活もすべて、そのための「ブランディング」と見えないこともないのである。
それを知るには、今、ナショナルトラストによって管理・公開されているチャーチルの私邸、ケント州チャートウェルを訪ねるのが一番いい。
まず目を引くのは、その蔵書の量である。「男を高貴にするのはその蔵書である」という彼の言葉どおり、家中のいたるところに本棚が設けられ、英国史に重点を置いた歴史書を中心に蔵書が収められている。新聞・雑誌の記者でキャリアをスタートしたチャーチルは青年時代から既に大変な愛書家であったのである。
ただチャーチルは単なる本のコレクターではない。これらの蔵書は、「文筆家チャーチル」の貴重な資料であった。
チャーチルはその生涯に43冊を著している。父ランドルフは三男だったため、さしたる遺産も相続できなかったチャーチルの主な収入源は文筆活動。彼が新聞や雑誌に寄稿する戦記は臨場感たっぷりで、大評判を呼ぶ。著作のほうは、いかにも「ミスターブリテン」らしく、主題は英国史。1948年に出した全6巻の第二次大戦回顧録でノーベル文学賞を得ている。
多彩な趣味は自己回復の手段でもあった
チャーチルといえばシガー、シガーといえばチャーチル。シガーはチャーチルのトレードマークであり、最たる愉楽だ。
チャーチルはシガーの味を、1895年に米西戦争の従軍記者として訪れたキューバで覚えたと推測されている。その味を好んだのは確かだが、一方、政治家、リーダーとしての自分を印象づけるブランディング・アイテムとしても抜け目なく利用した。このページに紹介している写真も発表媒体はさまざまだが、私邸での撮影ではどの写真にもシガーが写っている。
英国人は動物愛護で知られている。この点でもチャーチルは度を越した英国人ぶりを発揮している。犬(黒のプードル)・猫(赤茶)が館の住人として闊歩しているのは当然として、牛、馬、羊、豚、鶏のほか、白鳥などの水鳥も大切に育てていた。「私は豚が好きだ。人におべっかを使う犬や、人をバカにする猫と違い、豚はいつでも人を対等に扱うからだ」などとウイットに富んだ言葉まで残している。
庭仕事と造園もチャーチルの愉楽のひとつだ。なかでも彼が日課としたのは、庶民的な煉瓦積み。政治向きの仕事でロンドンに滞在していないかぎり、200個の煉瓦積みが彼の日課。英国煉瓦積み職人組合に登録申請したというニュースがながれたほど真剣にとりくんでいたのである。
そのほか、競馬、ポロなど馬にかかわることのすべて、クルマ、ギャンブル、蝶の採集などチャーチルの趣味の幅は実に広く、退屈とは無縁の生活であった。あの体でどうやってと思うのだが、ロッククライミングにも挑戦したらしい。だが、彼の愉楽的生活の中心をなしたのは、先述した1915年のダーダネルス作戦の失敗により、閣外に去ったときに覚えた絵画である。 第二次大戦の一時期を除き、チャーチルはチャートウエルはもちろん、海外の出張先やヴァカンス先にもイーゼルとキャンバスを携行。油絵を中心に約50年間に544の作品を残している。
チャーチルにとって絵は愉しみであると同時に「癒し」でもあった。ダーダネルス作戦の失敗に代表される失意のとき、「黒い犬が体のなかにいる」という鬱的な症状が現れたとき、彼は進んで絵筆を握り、精神のバランスをとったのである。
首相を筆頭に英国政府の要職をすべて経験。イングランドの最高勲章であるガーター勲章ほか、考えうるすべての叙勲を受け、BBC放送が選んだ『100名の最も偉大な英国人』の第1位に輝く男の人生は、ウエストミンスターを離れても、その体軀のように分厚いものだったのである。
- TEXT :
- 林 信朗 服飾評論家
- BY :
- MEN'S Precious2017年冬号 稀代の紳士、ウィンストン・チャーチル。今こそ、この傑物に学べ!
- クレジット :
- 撮影/池田 敦(パイルドライバー) 構成/菅原幸裕