英国に美味いものあり(肉編)からだいぶ時間が経ってしまった。

 英国で美味い魚料理といえば誰もがフィッシュ&チップスを思い浮かべるに違いない。だが、フィッシュ&チップス以外にもミルクで煮込んだスモークドハドックやこんがりと揚げ焼きにしたキッパー、新鮮なロックオイスターに熱々のフィッシュ・パイと、英国に行ったら食べたい魚料理はいろいろある。

 ロンドンには魚料理を看板にしたレストランが幾つかあって、ジャーミンストリートのウォルトンズやソーホーのJシーキー、シティにある元はフィッシュモンガー(魚屋)でランチだけ開いているスウィーティングスなど、それぞれに趣は異なっているが、いつ行っても初めて行った時から何十年も変わらない点は同じだ。

マリリン・モンローも訪れた高級レストラン「ザ・サヴォイ・グリル」

ロンドンを代表するホテル「ザ・サヴォイ」

ハリウッドスターに愛された華やかな歴史を持つザ・サヴォイ・グリル。そのインテリアにはアール・デコ特有の豪奢さとデカダンスがある。

 私が英国で必ず食べたいもの、それはスモークド・サーモンとドーヴァー・ソールである。英国産のシーフードのなかでもスコットランド産は名高いが、それには理由がある。以前にスコットランドの農林水産大臣にインタビューした時、スコットランドは世界有数のオーガニックのシーフード生産国であり、環境基準が厳しいことから海洋汚染が少なく、さらに海水に含まれるカルシウム含有量が多いので良質なシーフードを生産できるのだと聞いた。

 ロンドンで食べるスモークド・サーモンはほとんどがスコットランド産で、なぜかはわからないが、日本で食べる大半のスモークド・サーモンとは食感も味わいもまるで異なっている。

 昔、ある英国ブランドのジェネラル・マネージャーにインタビューした時、「私の本業はファッションビジネスじゃなくて、クリケットの選手なんだ。これから早く帰って練習するのが待ち遠しいよ」と言っていた。

 英国は階級社会だから、どのスポーツを愛好するかによってもその人の階層がなんとなくわかる。クリケットというのは典型的な上流階級のスポーツで、彼は子供の頃からサヴォイ・グリルに行って、家族で食事をするのを心待ちにしていたという。そういう上流階級の家庭が好むようなレストランがザ・サヴォイ・グリルであったということなのだろう。

 英国の上流階級、中でもサー・ウィンストン・チャーチルはザ・サヴォイ・グリルを贔屓にしていて、改装後のレストランにも彼の席はそのまま残してあった。いかにもウィンストンらしく、レストランの中央ではない。全体が見渡せる、やや暗がりの端のテーブルが彼の席だと知らされた。

ザ・サヴォイが大規模改装を行った後も残されたサー・ウィンストン・チャーチルが常に座っていたテーブル。それは店の奥まった場所にあった。ここで一体、何本のポール・ロジェと何匹のドーヴァー・ソールが消費されたことだろう。

 英国で食べるスモークド・サーモンにはまず仄かな薫香があって、そこにレモンを絞り、サーモンがちょっと口の中にまとわりつくようなむっちりとした食感を楽しんでから、フレッシュな辛口の白ワイン、プイィ・フュメなんかと共に食す。これ以上ないほどシンプルな料理だが、これ以上の複雑さは人生において全く必要ない。そう思わせる、私にとってはかなり贅沢な組み合わせだ。

 こうして真っ当においしい、しかし、何の変哲もないスモーク・サーモンを食べる時、ロンドンに帰ってきたのを実感する。

 ウォルトンズで食事をした時、クロスに包まれたレモンを絞りながら、友人が言った。

「いろいろなところでスモークド・サーモンを食べるけど、不思議とウォルトンズと同じ味の店はない。自分にとってはこれがスモークド・サーモンで、子供の頃から変わらない味なんだよ」

 一方、ドーヴァー・ソールといえば思い出すのが、ザ・サヴォイ・グリルである。創業1889年以来、ロンドンを代表するホテル、ザ・サヴォイの中にあり、ロンドンに住んでいた上流階級やハリウッドスターが足繁く通ったレストランだ。

クロスに包まれたレモンとカトラリーと比較するとその大きさが実感できる、ザ・サヴォイ・グリルの看板料理16オンスのドーヴァー・ソールのグリル。

 英国の伝統的なご馳走といえば肉料理ならローストビーフ、魚料理ならドーヴァー・ソールということになるが、ザ・サヴォイ・グリルの16オンス(約450g)のドーヴァー・ソールのグリルは圧巻であった。

 ドーヴァー・ソールは日本語では舌ヒラメ、覚悟はしていたが皿の上に堂々と横たわるその大きさにまず圧倒された。豊かなバターの香りにグリルの焼目が香ばしい。ナイフをいれるとしっかりと身に弾力性があって、ドーヴァー海峡の荒波を泳いできたせいなのか、肉質は締まっている。魚とは思えぬしっかりと食べごたえのある一品で、かつてウィンストンが好んだというのも納得できるたっぷりとしたご馳走だ。日本人は品数が多いことが何よりのご馳走に感じるが、西洋人はひとつの品種のものを多量にたべることがご馳走という概念があるようだ。彼らにとって十分な量がなければそれはご馳走ではない。

 ランチにせよ、ディナーにせよ、英国人にとって魚料理のレストランでは前菜にはスモークド・サーモン、メインにはドーヴァー・ソールが最上のもてなしという定義に則り、テーブルを共にする親切な友人たちは必ずと言っていいほどこの2品を勧めてくる。私も彼らの折角の親切を無にしたくはない。というわけで、ロンドン滞在中、来る日も来る日も同じメニューということもある。ところが、これが意外なことに、これだけシンプルな料理なのに同じスモークド・サーモン、同じドーヴァー・ソールはない。そういったわけで、毎回、飽きもせずに同じメニューを食べ続けている。

ご馳走はたっぷりの定義にならい、デザートも堂々とした大きさである。シナモンプディングがたっぷりのカスタードソースとレーズンの海に浮かんでいる。

 ところで、英国には伝統的な英国料理のレストランばかりで、フランスに比するようなガストロノミーが存在しないかというとそんなことはない。およそラグジュアリーに関連するものでロンドンに無いものは無い。古くはマルコ・ピエール・ホワイト、それからゴードン・ラムジー、今は分子化学料理のへストン・ブルメンタールといったミシュラン三つ星を持つシェフが先進的なフレンチスタイルの英国料理を創作し、コンテンポラリーなミシュラン星付レストランも多数存在している。未知の料理を発見するのは素晴らしいし、才能あるシェフのクリエーショに遭遇するのはジャーナリストにとって必要不可欠な体験だと思っている。そう思いながらも、私は実のところ食通ではなくオールドファッションな人間なのだろう。ロンドンに着いた時、何が食べたいかといえば、やはりいつ行っても変わらない老舗のスモークド・サーモンやドーヴァー・ソールなのである。

ホテル王セザール・リッツと料理史に名を残した稀代の料理人オーギュスト・エスコフィエが創造した、ロンドンを代表するホテルがザ・サヴォイだ。1930年代に出版された伝説のバーテンダー、ハリー・クラドック氏による「ザ・サヴォイ・カクテルブック」は今もバーテンダーの聖典と言われている。
この記事の執筆者
ジャーナリスト。イギリスとイタリアを中心にヨーロッパの魅力をクラフツマンシップと文化の視点から紹介。メンズスタイルに関する記事を雑誌中心とする媒体に執筆している。著作『サヴィル・ロウ』『ビスポーク・スタイル』『チャーチル150の名言』等。
公式サイト:Gentlemen's Style
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Yoshimi Hasegawa
EDIT&WRITING :
Yoshimi Hasegawa