【目次】

【「新選組の日」は2月27日と3月13日:違いを簡単に解説】

「新選組の日」として知られる記念日は、ふたつあります。この記念日の「違い」を理解すると、新選組という組織が「いつ生まれたか」「いつ公認されたか」が理解できますよ!

■2月27日:組織が「誕生」した日

1863(文久3)年2月27日、江戸で募集された浪士組の一行が京都に到着しました。その後、浪士組は江戸から京都へ向かいます。まだ「新選組」という名前すら存在しない、すべての始まりの日です。

■3月13日:組織が「公認」された日

同じく1863(文久3)年3月13日、浪士組の残留メンバーが、京都守護職であった会津藩主・松平容保の配下(預かり)となり、「壬生浪士組(みぶろうしぐみ)」として正式に発足しました。この「壬生浪士」が後の新選組。3月13日の「新選組の日」は、東京都日野市観光協会によって制定されています。


【2月27日の新選組の日|前身「浪士組」とは】

■「浪士組」結成の目的

1858(安政5)に安政の大獄が起こって以降、幕府の権威は失墜。1863(文久3)年、14代将軍・徳川家茂が230年ぶりとなる京都への上洛を控えていましたが、当時の京都は、尊王攘夷(天皇を尊び、外国を追い出す)を掲げる過激な浪士たちが闊歩しており、治安が極めて悪化していました。そこで、京都での将軍警護や治安維持を行うために、江戸の浪人を募ったのが「浪士組」の始まりです。

■幕府による「浪士募集」

幕府は身分を問わず、腕に覚えのある者を募集しました。これに応じたのが、江戸の牛込(現在の新宿区)にあった道場「試衛館」の近藤勇や土方歳三ら、後に新選組の核心となるメンバーでした。

■2月27日:京都・壬生への到着

1863(文久3)年2月8日に江戸を出発した一行(約230名)は、中山道を通って2月27日に京都へ到着。八木邸や前川邸など、現在も史跡として残る「壬生(みぶ)」の集落を宿舎としました。

■裏では清河八郎による策略が…

浪士組を率いていたのは出羽国の清河八郎でしたが、実は、清河の真の目的は、将軍警護ではなく、 京都で勤王運動を起こすことでした。清河の策謀を知った幕府は、浪士組をいったん江戸に戻すよう命じますが、京都残留を決めたのが、近藤勇や芹沢鴨らの一派でした。


【3月13日の新選組の日|壬生浪士組の成立】

■「会津藩預かり」の決定

1863(文久3)年3月13日、京都残留を決めた近藤勇や芹沢鴨ら24名の嘆願が受理され、彼らは京都守護職・松平容保(会津藩主)預かり(配下)となりました。これにより、単なる浪士集団から「公認の治安維持組織」へと昇格したのです。

■「壬生浪士組」の誕生

会津藩預かりの身となった際に名乗ったのが「壬生浪士組」という名前です。彼らの宿舎が壬生村にあったことからそう呼ばれ、後の「新選組」へとつながる歴史的な第一歩となりました。


【浪士組→壬生浪士組→新選組|違いをわかりやすく整理】

■浪士組

成立:1863(文久3)年2月〜
立場:幕府が公募した「将軍警護のための臨時集団」。
構成人数:約230人

■壬生浪士組

成立:1863(文久3)年3月〜
立場:会津藩の指揮下に入った「京都の治安維持組織」。
構成人数:江戸へ戻った本隊と別れた京都残留組24名。

■新選組(しんせんぐみ)

成立:1863(文久3)年8月〜
立場:朝廷や幕府から認められた「武装警察組織」。
構成人数:1863(文久3)年8月18日の政変での働きが認められ、20数名で始まりました。名実ともに京都の治安を守る中心的存在となったのです。その後京都での活動を通じ、200名を超す規模に拡大していきます。


新選組の主要メンバー|近藤勇・土方歳三・沖田総司】

新選組は1863(文久3)年の誕生から1868(明治1)年までの約5年間で、その組織構造を大きく変遷させました。「壬生浪士組」から「新選組」へと発展していく初期段階では、大きく分けて「水戸派(芹沢鴨派)」と「試衛館派(江戸・近藤勇派)」の2つのグループが混在する不安定な組織でしたが、局中法度(鉄の掟)を背景に、近藤勇・土方歳三を中心とした強力な幕府忠誠組織へと変貌していきます。

■結成当初(1863年:「壬生浪士組」時代)

結成当初は、水戸派と試衛館派のバランスを取るために「三局長制体制」をとっていました。

局長: 芹沢鴨(水戸派)、近藤勇(試衛館派)、新見錦(水戸派)
副長: 土方歳三、山南敬助
助勤: 沖田総司、永倉新八、斎藤一、藤堂平助、原田左之助、井上源三郎 など 
特徴: 派閥争いがあり、組織としてはまだまだ不安定

■黄金期(1863年〜1865年:「新選組」時代)

1863年9月、京都守護職・松平容保により「新選組」の隊名が与えられました。同年9月下旬には新選組内の不和や乱行を理由に、芹沢鴨を粛清。さらに池田屋事件後に隊士が急増し、組織が充実していきます。洋式軍制を参考に一番隊から十番隊までの「十個小隊」の体制が整えられました。

局長: 近藤勇
副長: 土方歳三(実務・規律の責任者)
総長: 山南敬助
組頭(組長)
  一番隊:沖田総司(天才剣士)
  二番隊:永倉新八(剣術随一)
  三番隊:斎藤一(左利きの達人)
  八番隊:藤堂平助(最年少幹部)
  十番隊:原田左之助(槍の名手)
特徴: 局長を頂点に、副長が現場を仕切る機能的なピラミッド型組織となりました。

■終焉期(1867〜1869年)

鳥羽・伏見の戦い以降、隊は江戸へ戻り「甲陽鎮撫隊」と改称しますが、敗戦を重ねます。近藤勇の処刑後、土方歳三は旧幕府軍と共に北上し、箱館戦争にて戦死。 1869(明治2)年5月18日、戊辰戦争における旧幕府軍降伏により、事実上消滅しました。

局長(箱館参謀・陸軍奉行並): 土方歳三
隊長: 相馬主計
主要隊士: 斎藤一(会津にて離脱)、島田魁(箱館まで従軍)

■主要メンバー

初代筆頭局長:芹沢鴨(せりざわ かも)
派閥: 水戸派
役割: 浪士組の中でも屈指の剣客で、結成当初は近藤勇よりも上の立場である「筆頭局長」を務めました。粗暴な振る舞いが目立ち、後に近藤派によって粛清されますが、初期の組織力に大きく貢献しました。

局長:近藤勇(こんどう いさみ)
派閥: 試衛館派
役割: 天然理心流(てんねんりしんりゅう)の4代目宗家。江戸の農民出身ながら「武士以上に武士らしく」という強い志を持ち、浪士組の残留を主導しました。

土方歳三(ひじかた としぞう)
派閥: 試衛館派
役割: 近藤の右腕として、組織の運営や規律の維持を担いました。後に「鬼の副長」と恐れられるほど厳格な姿勢で、烏合の衆だった浪士たちを最強の戦闘集団へと変えていきました。

・若き天才剣士:沖田総司(おきた そうじ)
派閥: 試衛館派
役割: 弱冠20歳前後(諸説あり)ながら、一番隊組長を務めるほどの腕前。近藤からの信頼も厚く、剣術指南役として隊の戦闘力を支えました。


【新選組とは何をした組織?活動内容をわかりやすく解説】

新選組は、幕末に、京都で「反幕府勢力(尊王攘夷派・倒幕派の志士)の取り締まり」と「治安維持」を行った武装組織です。現代でいうところの「警察」と「特殊部隊」を合わせたような働きをしていたと言えるでしょう。

■市中見廻り(パトロール)と検問

最大の任務は、京都の治安維持です。当時は「天誅」と称した暗殺や放火が横行していたため、隊士たちは数名の組に分かれ、昼夜を問わず市中を巡回しました。不審な浪士がいれば厳しく取り調べ、必要であればその場で捕縛・殺傷することも認められていました。

■有名な「池田屋事件」って簡単にいうとどんな事件?

1864(元治元)年6月5日。新選組は、京都を火の海にし、中川宮(皇族)を拉致するという過激派浪士の計画を察知。三条木屋町の旅館「池田屋」に隠れていた長州藩などの倒幕派浪士を襲撃し、多くの有力浪士を討ち取りました。彼らの計画を阻止したことで、倒幕派に大きな打撃を与え、幕府勢力の巻き返しにつながったとされています。新選組最大の功績である「池田屋事件」によって、新選組の名前は日本中に広まりました。

■御所の警備と軍事活動

京都守護職(会津藩)の配下として、天皇が住む「御所」の警備も担当しました。1864年の「禁門の変(蛤御門の変)」では、長州藩の軍勢を相手に会津藩らと共に参戦し、幕府側に立って最前線で戦いました。


【新選組の掟「局中法度」とは|内容と目的】

新選組は「人斬り集団」と人々から恐れられる一方で、幕末最強の結束力を誇った集団でした。局中法度(きょくちゅうはっと)とは、新選組が定めた厳しい隊内規律(鉄の掟)です。

■局中法度の五か条

近藤勇と土方歳三によって定められたとされるこの掟は、以下の5つの禁止事項から成っていました。

・士道に背くまじきこと:武士道に反する振る舞いをしてはならない。
・局を脱するを許さず:一度入隊したら脱退は許されない。
・勝手に金策致すまじきこと:無断で借金や資金集めをしてはならない。
・勝手に訴訟取扱うまじきこと:無断で他人の争い事に介入してはならない。
・私の闘争を許さず:個人的な恨みによる喧嘩をしてはならない。

■なぜこれほど厳しい掟が必要だったのか?

新選組の隊士たちは、もともと武士だけでなく、農民や町人など、バラバラの出身者で構成されていました。血気盛んな浪士たちをひとつの軍隊として機能させるため、恐怖政治とも言える厳格な罰則が必要だったのだと言われています。また、乱暴な振る舞いを禁じることで、京都の住民や会津藩、幕府からの信頼を勝ち取る狙いもありました。

■違反した者は「切腹」?

この掟の恐ろしい点は、背いた者には「切腹」もしくは「粛清」が命じられたことです。この法度によって粛清された隊士は、新選組が倒した志士の倍近くいたと言われるほど、組織内部の規律維持は徹底されていました。

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新選組には、実は「2月27日」と「3月13日」というふたつの記念日があります。2月27日は、新選組の前身となる「浪士組」が京都に到着した日。そして3月13日は、残留した隊士たちが会津藩預かりとなり「壬生浪士組」として正式に発足した日です。

こうして生まれた組織は、やがて「新選組」と名を変え、京都の治安維持を担う幕末屈指の武装組織へと発展していきました。近藤勇、土方歳三、沖田総司といった個性豊かな人物たちの活躍は、現在でも多くの映画や小説、ドラマの題材になり続けています。

歴史を知ってから作品に触れると、新選組の物語はさらに奥深く感じられるはずです。

この記事の執筆者
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