瀬戸内の海で出会った、忘れられない美食体験
海と空が溶けあい、目の前は青一色……瀬戸内の光景に、心がおだやかに凪いでいくのを感じました。キラキラと輝く水面、その向こうに幾重にも重なる島影、刻々と表情を変えていく空。今回、訪れたのは、広島県三原市・佐木島に2026年4月に開業した「NOT A HOTEL SETOUCHI」。目的は、スペイン・バスクのレストラン「Txispa(チスパ)」を率いる前田哲郎シェフを迎えて開催された、「NOT A HOTEL」オーナー向けの特別な食のイベントです。「NOT A HOTEL」では、オーナーになってからの体験をより豊かなものにするため、オーナー限定のイベントなども定期的に開催されています。
職業柄、スペシャルな空間での食事(ベルサイユ宮殿での晩さん会とか!)に招待されることも多いのですが、今回のイベントは私の取材人生でもおそらく十指に入る特別な体験となりました。心に残ったのは、前田シェフのすばらしい料理はもちろんのこと、海を渡る時間、島の自然と一体となった建築、そこで出会った人々……ひと晩のディナーを通して、「本当の豊かさとはなにか」と少し考える旅になったのです。
レストランではなく、瀬戸内そのものを巡るディナー
今回のイベントのテーマは、「瀬戸内、海を旅するように食す──バスクの山村から、瀬戸内の島へ」。
その言葉通り、ゲストがテーブルについてコース料理を待つ、通常のディナーとは少し趣が異なります。まず本土側の「NOT A HOTEL CLUB HOUSE SETOUCHI」からスタートし、屋形船で瀬戸内海を渡り、最後は佐木島の丘の頂に建つ「360」へ。3つの場所を移動しながら、料理を味わっていく“食の旅”なのです。
ところで、「NOT A HOTEL」とは?
名前を聞いて、「ホテルではないなら、いったい何?」と思った方もいるかもしれません。
「NOT A HOTEL」は、デザイン性の高いヴィラを「自宅・別荘」として所有しながら、使わない日はホテルとして運用できる仕組みをもつブランド。ライフスタイルに合わせて年20泊ほどのシェア購入が可能で、SETOUCHIでは1口につき年間30泊を利用できる共有所有の仕組みが採用されています。また、自分が保有する泊数を使って、所有する拠点だけでなく、全国のほかの「NOT A HOTEL」にも滞在することができます。
そして、建築そのものが旅の目的になるような場所づくりも大きな特徴。「NOT A HOTEL」は「日本の価値を上げる」をミッションに掲げ、国内各地で世界的な建築家やクリエイターとのプロジェクトを展開しています。
今回の舞台となったのは、世界的建築家であるビャルケ・インゲルス率いるBIGが手がけた「NOT A HOTEL SETOUCHI」。地形や海の景色を建築に取り込み、眺望の角度にちなんで名付けられた「180」「270」「360」の3棟が点在しています。
今回のディナーの最終地点となった「360」は、そのなかでも最も高い丘の頂に建つヴィラ。リング状の建築がぐるりと景色を取り込み、その名の通り360度、瀬戸内の風景に包まれているのがとても印象的でした。
バスクの山からやってきた「Txispa」前田哲郎シェフ
そして、この特別な場所で料理を任されたのが、スペイン・バスク地方の「Txispa」を率いる前田哲郎シェフです。バスクの山村で、火と食材と土地に向き合ってきた料理人が、海に囲まれた瀬戸内の島へやってくる。前田シェフの料理と瀬戸内という土地が出会ったとき、何が生まれるのか──その答えを探すように、私たちの食の旅は始まりました。
海を渡りながら味わう、3つの場所を巡るディナー
さて、CLUB HOUSEでアペロを楽しんだところまでは前述しておりますが、その後の展開はなんと佐木島へ向かう屋形船へ移動。次の料理をいただくために別の部屋へ移るというのは高級レストランでもたびたび見かける趣向ですが、今回は船に乗って海を渡るのです。
屋形船のデッキに出れば、潮風が頬をなで、その先には瀬戸内の水平線。船の音や潮の匂い。料理を構成するものは、必ずしも皿の上にあるものだけではないのだな、と改めて思います。
そしてここで、私にとってもうひとつ思いがけない楽しみがありました。食事の取材をするときは、ひとりでテーブルにつくことも珍しくありません。おいしいものをいただく仕事なのですから、ひとりで食べることの小さな孤独には、もうすっかり慣れました。ところが、この日は同席した「NOT A HOTEL」のオーナーのみなさんが、ごく自然に話しかけてくださったのです。
興味深かったのは、みなさんが口々に「NOT A HOTEL」の魅力を語ること。「ここがいい」「あそこもよかった」と楽しそうに話す様子を聞いているうちに、私も懐具合が許せばオーナーになりたいものだと思いました(まあ、無理なんですけどね)。そして何より、初対面の私を特別扱いするでもなく、かといって放っておくでもなく、心地よく食卓の輪に入れてくれる。その距離感が、とても素敵でした。
「360°」で迎える、旅のフィナーレ
今回の料理で印象的だったのは、瀬戸内の食材を生かしながら、前田シェフならではの薪火の技が随所に光っていたこと。炭火で焼いたモエビや、三原の赤酢を合わせた牡蠣など、素材の持ち味を引き出す料理に続き、メインには豪快な薪焼きのリブロースが登場しました。繊細な料理から力強い肉料理まで、その振り幅の大きさも楽しく、何より、土地の食材との出会いをシェフ自身が楽しんでいるように見えたことが、今回のディナーをいっそう印象深いものにしていました。
風景も、食材も、いつもとは違う。その違いを、新しい遊び場を見つけたかのように楽しんでいる前田シェフの姿を見ていると、料理をいただくこちらまで楽しくなってきます。食事が進むにつれ、同じテーブルを囲む人たちとの会話も弾んでいきました。
そこで、ふと思ったのです。本当に豊かな人って寛容なんだな、と。もちろん、たった一度同席しただけで、その人たちを語ることなどできません。でも、少なくともこの夜出会った方々は、みなさんとても自然体でした。いいものをよく知っているけれど、それをひけらかさない。そして、自分が好きなものを誰かと共有することを楽しんでいる。それは、服やインテリアを選ぶのと同じように、人との距離の取り方にも現れる、一種のセンスなのかもしれません。
この日、私はおいしい料理を食べ、素晴らしい建築を見て、美しい瀬戸内の海を渡りました。
でも、この旅から東京へ持ち帰ったものは、それだけではありませんでした。楽しそうに料理をする前田シェフと、その料理を楽しむ人たち。そして、偶然同じテーブルについた人間を、ごく自然にその楽しさの中へ招き入れてくれる人たち。ラグジュアリーという言葉は、ともすると「何を持っているか」で語られがちです。でも、本当の豊かさとは、自分が手にした素敵なものや時間を、誰かと気持ちよく分かち合えることなのかもしれません。では、私は何を人と分かちあえるだろうか──あの美しかった瀬戸内の海を思い出しながら、今もそんなことを考えています。
●NOT A HOTEL
https://notahotel.com/

- TEXT :
- 秋山 都さん 文筆家・エディター
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