2015年夏号では「ジャパニーズ・ダンディズム」と題し、日本のモノづくりにおける心意気、人の生き方を紹介した。今回は番外編として、自動車メーカーの"マツダ"に焦点を当ててみたい。
先進の技術に挑んだ広島の雄
"マツダ"は1920年に「東洋コルク株式会社」として発足。1931年に3輪トラックの生産を始めて以降、広島を拠点とする自動車メーカーとして発展してきた。もっとも、その歩みは決して平たんなものではなかった。60年代に入ると運輸省主導の下、自動車業界の合併の動きが始まり、中堅メーカーのマツダは危機感を募らせた。当時の社長・松田恒次は起死回生の切り札として、ロータリーエンジンの開発に着手することを決断する。ピストンの往復運動を回転運動に変換して動力を生み出すレシプロエンジンに対し、ロータリーエンジンはハウジング(レシプロエンジンのシリンダーに相当するもの)内でローターを回転させる仕組みをもつ。シンプルな構造で小型・軽量化が図れるロータリーエンジンは、振動や騒音も抑えることができる理想的な内燃機関として世界中の自動車メーカーが開発を目指していた。"マツダ"はいち早く実用化にこぎつけたドイツのNSU(現在の"アウディ")がもつ「ヴァンケルモーター」の技術を買うが、そこで致命的な欠陥があることに気付く。
世界唯一のロータリーエンジン量産メーカーへ
三角形のローターのそれぞれの頂点には、気密性を確保するための「アペックスシール」を取り付けなければならないが、ローターが高速回転するうちにハウジングの内面を傷付ける異常摩耗現象を避けることができなかった。"マツダ"は山本健一部長の主導の下、若き技術者チームでこの現象を抑える研究に挑む。さまざまな素材でアペックスシールを作っては失敗を重ね、ついには社内でもロータリーエンジンに実用化を疑問視する声が高まってくるなか、カーボンを使った複合材のアペックスシールを開発し、ようやく難関をクリアすることができた。そして1967年にロータリーエンジンを搭載した「コスモスポーツ」を発表し、今日にいたるまで"マツダ"は世界で唯一の「ロータリーエンジンの量産化を成し遂げた自動車メーカー」となったのである。
数々の名車が生まれた「MIYOSHI」とは
「コスモスポーツ」を開発するにあたり、徹底した高速走行テストを重ねた舞台が、広島県北部にある"マツダ"の「三次自動車試験場」だ。最大バンク45度の高速周回路を備えたこのテストコースは、1965年の建設当時、一企業のもつ試験設備としては国内最大規模だった。現在、"マツダ"は国内に4つのテストコースを保有しているが、数々の名車の開発の舞台となった三次こそが同社のモノづくりの原点であることに変わりはない。それは全国のマツダオーナーも同じだ。開業50年を迎えた2015年9月には記念行事「三次試験場50周年マツダファンミーティング」が開催され、1000台を超えるファンの愛車が集まった。技術者やテストドライバーたちの飽くなき挑戦の歴史が刻まれた研究開発の現場で、"マツダ"を愛する者たちが邂逅する記念すべき日となった。
2012年の「RX-8」の生産終了をもってロータリーエンジン搭載車の販売は終了したが、その後もマツダは自動車のあらゆる基本技術を総合的に刷新した「スカイアクティブテクノロジー」や、エモーショナルな造形を目指した「鼓動デザイン」を発表し、高い評価を受けている。そして近い将来には、より現代的に進化したロータリーエンジン搭載車の姿を観ることができるかもしれない。"マツダ"のモノづくりへの飽くなき情熱に期待したい。
- TEXT :
- 櫻井 香 記者