鈴木保奈美さんの連載「Carnet de petite voyageuse 中途半端な旅人は語る」第二十一回
俳優・鈴木保奈美さんの大好評連載「Carnet de petite voyageuse 中途半端な旅人は語る」では、保奈美さんの趣味のひとつである旅をテーマに、これまで経験してきた旅路を振り返ります。
第二十一回となる今回は、【ルテシアとレノックス】と題してお送りします。
第二十一回「ルテシアとレノックス」 文・鈴木保奈美
この連載の第一回を、ファッション撮影を兼ねて海外ロケで始めませんか、と嬉しすぎる提案を編集部からいただき、スケジュールや予算や諸々の段取りがつき、ロケ地がパリに決定しました! と聞いたときには小躍りした(ちなみに踊りといえば、ウエストコーストスウィングというのが気になっている、最近)。さらに宿泊するホテルはルテシアです、と聞いて、もう、ひとり舞踏会くらい踊った。まさか、あのルテシアに、泊まれる日が来るなんて。
サン・ジェルマン・デ・プレのあたりから、通りを斜めに西に降りていく。小さな靴屋や、インテリアショップを冷やかしながら、シェルシュ・ミディ通りのポワラーヌでクッキーとアップルパイを買い、齧りながらさらに歩くと公園の木立の向こうにル・ボン・マルシェ百貨店の看板が見えてくる。ここの食品館でお土産用のバターやショコラやクスミティーを買って、もう荷物があるからメトロでホテルに帰ろう、と、セーヴル・バビロンの交差点まで戻って来たとき、目の前にどん、とそびえているのがホテル・ルテシアなのだった。
黄昏時で、コートの襟をかき合わせた人たちが家路を急いでいて、公園の落ち葉がぴゅ〜と舞って、見上げるとグレイの空に “LUTETIA” のネオンが点っている。ローマ帝国風に、UをVで表して。歩道に面したテラスでは黄色い灯りが周囲を暖めていて、最後の一杯のお茶を啜るマダムと、アペリティフの一口目を始めるムッシュでざわざわしている。二十代の日本人は、ガラス越しに覗き込みながら、いつもため息をついていた。自分も大人になったら、こんなふうに堂々と、品良くゆったりと、暮れなずむひと時を過ごせるようになるだろうか? いつか、ルテシアで?
その頃のわたしはよく、ホテルの予約をせずにパリへ飛んでいた。シャルル・ド・ゴール空港から、ロワシーバスで凱旋門へ。シャンゼリゼ通りの観光案内所へスーツケースをコロコロ引きずって行って、「今日から三泊、5区か6区か7区の三つ星ホテル、一泊五百フランで」と探してもらうのだ。そんなプチ冒険を楽しめる、安全でアナログな時代だった。そうやってたどり着く小さなホテルは、エレベーターが手動の蛇腹ドアで、朝食は地下の食堂のタルティーヌで、そんな旅がわたしは大好きで、ルテシアは憧れというビロードの小箱に入れて胸の中にしまわれていた。
その、小箱が。開く日が来るなんて。長く生きてると良いことがあるものだなあ。しかも日本の人気ファッション誌の取材であるから、ホテル中の人がすれ違うたびに「マダムスズキ、滞在はいかがですか?」と気を遣ってくれる(いや取材でなくても当然の気配りだね、きっと)。パリッパリに糊の効いた枕カバーにはわたしの頭文字の刺繍までしてある! 改装はされているものの、あのテラスで、優雅に朝食をいただいてるわよと、三十年前の自分に教えてあげたい。夢は、叶うものなのだ。
とはいうものの、さてその自分は、あの頃憧れた大人になっているだろうか? ルテシアに相応しいエレガンスを身につけただろうか? バーに足を踏み入れるのにも緊張して、マティーニを頼んで心の中で「ひゃっほう、」とか叫んでいるのに? うん、それでもいいのだ。わたしは自分の現在位置を知った。まだ背伸びできることを知った。ガラス越しに覗き込むのではなく、あのアールデコのベランダの内側から、フランス窓を外へ開いて、ル・ボン・マルシェのサインを同じ高さで見たのだ。それは確実に自分の経験値を上げてくれた。
この旅で、そうか、憧れは「いつか」と取っておくことはないんだ、と気が付いた。いつかを、今にしてしまえば良いのだ。あと何年、こんな旅ができるかわからないのだし。
ボストンへは、娘が留学していたので四、五回は行っている。ホテル選びはスピードと効率が勝負。五月の卒業式と八月の入学式シーズンは全米、いや全世界からの学生がボストン中にあふれ、式への参列や引っ越しを手伝うためについてきた家族もあふれるので、ホテルやモーテルはどこもすぐ満室になってしまうし、値段も上がる。だから予定が決まり次第大急ぎで、大学への便の良さを最優先にして予約する。ボストンはコンパクトな街だし、治安も品も良いので、それで十分だった。が、近くを通るたびにとても気になるホテルがあった。ザ・レノックス ホテル。周りの高層ビルなどどこふく風で佇む十階建ての古いホテルで、歩道から見える一階のコーナーはシックなカフェレストランで屋上には “The Lenox” のネオンサインが。うむ、どうやらわたしの好きなホテルはパターンが決まっているようだ。重厚だけど楽しそうで、上品だけど気取りがなくて、洒落ていて懐が深い。あと、ネオンサインね。
さて、娘の卒業式に向かう準備をしていて、はたと思いついた。もう、ボストンへ行くことはないかもしれない。だとすれば、これはレノックスに泊まる最後のチャンスではないか? この機会を逃して、残りの人生、「あのホテルに泊まってみたかったわねえ」と言い続けることに、何の意味があるのか? 確かに費用はかかるが、そこで得られる経験値こそ、意義ある買い物と言えるのではないか? よし、予約!
この年の五月のボストンは冷たい雨が降っていた。わたしはひどい熱を出し、娘に買ってきてもらった薬を飲んで、部屋のベッドで丸一日寝ていた。まさに、レノックスの滞在を満喫することになったのだ。憧れを、贅沢に日常使いしたわけだ。これが味気ないモダンな高層ホテルじゃなくて、本当に良かった。どっしりとしたイギリス風の家具が配置された部屋で毛布にくるまって、窓から霧雨に煙る街を眺めていた。そのグレイの光景は、いかにも寒そうなのに何だか可笑しくて、室内はまったりと暖かく、ベッドサイドのラジオから流れるFM局のジャズとともに、わたしにとって最もボストンらしい記憶となったのだ。
◇この連載をまとめた鈴木保奈美著『中途半端な旅人は語る』(小学館)が単行本化
この連載をまとめた鈴木保奈美著『中途半端な旅人は語る』(小学館)が、単行本として刊行されます。発売を記念したトークイベントを、2026年8月14日(金)に東京・代官山 蔦屋書店で開催予定。詳しくはこちらをご覧ください。
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- PHOTO :
- 鈴木保奈美 (本人の写真は、スタッフ、友人、家族が撮影)
- EDIT :
- 喜多容子(Precious)
- 協力 :
- ライカカメラ ジャパン

















