銀座、日比谷、神田、上野……現代の東京では、ハイテクな都市の景観に、時折古色蒼然とした建築が点在している。それらは、戦災を切り抜けた、大正〜昭和期に造られたものであったり、建築当時の構造を残し改築されたものである。

明治から大正、そして昭和と時代が移り変わり、さらに関東大震災を経て大きく近代化された東京の街。その帝都の景観を形成した多くの建築を手がけたのが、洋行帰りの建築家たちだった。

 古書店「森岡書店」を営む森岡督行氏。これまで森岡氏は、茅場町第2井上ビル、銀座鈴木ビルと、第二次大戦前に造られた建築物に店舗を構えてきた。氏は戦前の建築の魅力を、次のように語る。

「街の中で、忘れ形見みたいな感じで、不思議なエネルギーを発しています。

そういう建物では、今でも昔でもない、独特な身体的体験ができます。東京だけどどこか異境、時空に歪みが生じている感じとでもいいますか」

森岡氏の著作『東京旧市街地を歩く』では、旧制の区割りにおける、神田区、日本橋区、京橋区、麴町区に残る建築を紹介している。その中には洋行帰りの建築家による建築物も多い。それらの特徴を氏は次のように語る。

「(明治期に活躍した)辰野金吾や片山東熊らのいわば〝第一世代〞の建築家たちは、ヨーロッパのものをそのまま出現させることに重きを置いたような気がします。日本銀行本店(辰野金吾)や東京国立博物館の表慶館(片山東熊)がそうですね。でもその次の世代ぐらい、たとえば東大安田講堂を手がけた岸田日出刀や分離派建築会の活動には、ヨーロッパを超えようとするような気持ちが感じられます。そこが面白いところです」

鹿鳴館を手がけた、明治政府のお雇い外国人建築家、ジョサイア・コンドルの指導を受けたのが、辰野や片山だった。欧化主義の時代でもあり、東京には彼らが手がけた、洋風の建築が多く出現した。しかし、明治終盤から大正期になると、洋行によって欧米のリアルな建築を知った建築家たちによって、新たなスタイルが導入される。建築の芸術性を追求した分離派建築会などの運動、またはバウハウススタイルのモダニズムと、東京の建築の幅は広がっていった。

「たとえば土浦亀城は、あまり知られていないですが、フランク・ロイド・ライトの建築事務所タリアセンにいたこともある、当時の東京の建築を語る上で重要な建築家です。土浦は戦時の日本の対外宣伝誌『FRONT』をつくっていた東方社が入っていた九段下野々宮アパートや、銀座三原橋の旧シネパトスのビル(旧名・三原橋観光館)、名取洋之助で知られる対外宣伝誌『NIPPON』の日本工房が入っていた銀座泰明小学校脇の徳田ビルなど、モダンなビルを数々手がけていました。この徳田ビルには当時、バウハ↖ウスから戻ってきた建築家山脇巌と道子も住んでいました。どこか洋行者のサロンめいたところもあったんでしょうね」

 また、「ちょっと変わった洋行ですが」と、森岡氏が挙げたのが伊東忠太。
「伊東忠太は築地本願寺や湯島聖堂の設計で知られていますが、行き先が変わっていて、インドや中国、トルコなど、アジアに行っています。『阿修羅帖』という、スケッチブックに妖怪を書いた本も出しています。面白いですよね。当時の建築の幅広さを感じさせます」

さらに森岡氏は銀座のランドマークの担い手について言及する。
「あと、忘れちゃいけないのが、渡辺仁。和光(旧服部時計店)を手がけた建築家です。渡辺の建築の多様性は、洋行に拠るところが大きいかもしれません。東京国立博物館の帝冠様式の一方で、原美術館、ル・コルビュジエみたいなモダンな建築も設計しています。今はなくなってしまいましたが、有楽町の日本劇場や横浜のホテルニューグランドも渡辺の作です。渡辺仁こそ、東京の風景の要所を押さえている人ですね。ここは自分の作、あれも自分と、気分がよかったでしょうね」

帝冠様式とは、たとえば屋根に破風を戴いたような、日本趣味を盛り込んだ建築の俗称。この帝冠様式こそ、昭和初期に建築家たちの創造の原動力となったものを象徴していると、森岡氏は言及する。

「大戦前の社会は皇紀2600年(※)に向かっていたと思うんです。このことは『永遠の0』『風立ちぬ』といった映画には描かれていないのですが、日本人の戦前のメンタリティとして大きいはずなんです。昭和15年に、どのように日本を世界にアピールするか。東京オリンピックと万博をまとめてやる予定もありました。たとえば吉田鉄郎設計の東京中央郵便局、今のKITTEの定礎には、皇紀何年と書かれています。横河民輔設計の日本工業倶楽部会館も定礎は皇紀。和光も皇紀です。零戦などを開発したのと同様の気概が、そこにはあったと思います」

やがて東京は戦渦に見舞われ、敗戦。そして戦後、建築の方向性は戦前とはガラリと変わったと、森岡氏は見る。

「建築においても、文学などにおいても、もう日本はある程度のところまで来たと言っていたところを、敗戦によってバシッと切られたというか、ないことにされたように感じます。

それまで積み重ねられてきた美意識は、そこで途絶えた。私は日本の対外宣伝誌を研究していますが、戦後から1970年までの日本の対外宣伝誌を見ていると、敗戦を消す、帳消しにする、そういう心理が如実に感じられます。以前茅場町のビルで店をやっていたときに、年配の方から、こんなビル倒せと言われました。戦前の記憶がよみがえってくる感じだったようです。

戦後民主主義の中で、記憶と直結する建物はなくしたいと思われたかもしれません」

だからこそなおさら、今日数少なく残る戦前の建築の、独特な存在感は強まり、その魅力を感じるのだとも。
「なぜ惹かれるかといえば、経済性よりも、美意識が優先していたことの素晴しさでしょうか。私にはそう思えます」

■土浦亀城[つちうらかめき]
1897年茨城県生まれ。東京大学工学部建築学科在学中に来日中のフランク・ロイド・ライトと知り合い、その後アメリカに渡りライトの事務所タリアセンで3年間過ごした。帰国後はモダニズムに移行した。
■伊東忠太[いとうちゅうた]
1867年山形県生まれ。東京大学工学部大学院に進み、教授に。西洋建築をベースに、日本建築を再考した。また「造家」という言葉を「建築」に改めた。日本的建築を考察した、『建築進化論』を発表した。
■渡辺仁[わたなべじん]
1887年東京都生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。鉄道院、逓信省を経て、独立。歴史主義様式から初期モダニズムまでその作風は多岐にわたっている。「第一生命館」はGHQ本部が置かれた建物として知られる。

この記事の執筆者
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菅原幸裕 編集者
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MEN'S Precious2016年春号「東京ジェントルマン50の極意」より
『エスクァイア日本版』に約15年在籍し、現在は『男の靴雑誌LAST』編集の傍ら、『MEN'S Precious』他で編集者として活動。『エスクァイア日本版』では音楽担当を長年務め、現在もポップスからクラシック音楽まで幅広く渉猟する日々を送っている。
クレジット :
森岡督行/談 イラスト/早乙女道春 構成・文/菅原幸裕