OOHYO(ウヒョと読むらしい)の曲を最初に聴いたのは、確か「Vineyard」だったと思う。vaporwaveやsynth-popあたりの音源をYoutubeでザッピングしているときに、偶然出会ったのだった。レトロ感ある素朴な打ち込みサウンドに、シティ・ポップ調の微かなメランコリー(またはノスタルジー)を感じさせる曲調、そしてなによりスモーキーでどこか舌足らずな感じの歌声が印象に残った。
彼女自身を反映するような、浮遊感あるエレクトロ・サウンド
2014年にリリースされた彼女の初EP『Girl Sense』は、宅録的な、インディーズ感あるサウンドの中に、光るポップセンスを感じさせた。その中には韓国語だけでなく、堪能な英語で歌われる曲もあった。ジャケットのかわいらしい少女の写真は彼女の幼い頃だろうか。しかし、当時ネットを掘ってみても、彼女の実像になかなかリーチしなかった(bandcampのアーティストサイトや、所属レーベル「文化人(MUN・HWA・IN)」の彼女のページには、いまもはっきりとした顔写真は存在しない)。もっとも、その秘密主義というか、シャイネスが、かえって彼女の音楽への興味をかきたててもくれた。
その後2015年に『Adventure』というアルバムをリリース。ファーストEPの稚気はそのままに、韓国と留学先の英国との間で所在なげな彼女の心情をそのまま反映したような、浮遊感を感じさせるエレクトロニックなサウンドが印象に残るアルバムだった。それから3年半ぶり、今年4月にリリースされたアルバム『Far from the Madding City(怒った都市から遠く)』は、ファーストアルバムのシンセポップマナーのサウンドを引き継ぎつつも、これまでとはひと味違った、なんというか、「引っかかり」が感じられる作品となっている。
ウェブニュースサイトKorea JoongAng Dailyのインタビューで、OOHYOは本アルバムのタイトルについて、トマス・ハーディの『Far from the Madding Crowd』より着想したと語っている。『テス』や『日陰者ジュード』といった小説で、悲観的な調子で、19世紀当時の英国の人々を描いた作家ハーディ。彼と同様の視点をOOHYOも持っているとまでは思わないが、彼女のメランコリアに親しんできた聴きてとしては、納得いく連関だ。ただ、これまではパーソナルな内的世界がベースとなっていた彼女のサウンドスケープが、本作では「怒れる都市(これはおそらく、彼女の故郷である韓国・ソウルなどを念頭に置いているのだろう)」から距離を置くという形で、俯瞰的に捉えられているところが特徴であり、先の「引っかかり」の理由ともいえる。決して積極的ではないにしても、表現者として、社会と相対しようとする姿勢が感じられるのだ。
例えば、エイミー・マンあたりのSSWの曲を連想させる、どこか90年代オルタナの香りを感じさせる「A Good Day」は、詞もさることながら、その曲、そのサウンドに、女性の内向性を肯定しながら、ありのまま表現しようとするようなスタンスが感じられる。これまでの柔らかくフロウするサウンドなだけではない、ややソリッドな、強さを感じさせる一面も備えている。
ちなみに「A Good Day」の共同プロデュースはトニー・ドーガン、ベル・アンド・セバスチャンやモグワイなどとの仕事でも知られるエンジニア&プロデューサーだ。マスタリングはあのグレッグ・カルビが担当している(別の曲ではエド・シーランとの仕事などで知られるスチュワート・ホークスがマスタリングしている)。こうしたコラボレーターのバラエティ感もまた本作の幅と奥行きを生んでいるかもしれない。グラミーノミネートで注目されたLA在住の日本人プロデューサー&DJ、StarRoがミキシングも担当した「Swimming」などは、従来のシンセポップ路線をより推し進めた、グルーヴ感ある仕上がりになっている。また、フランスのドリームポップ〜チルウェイブの新進デュオ、コーラル・ピンクのメンバーもいくつかの曲で共同プロデュース&ミキシングを行なっている。
ただ、そうしたサウンド面の多彩なアプローチが展開されるほど、それらに共通した価値として結果的に際立つのは、OOHYOのソングライティングと声の感触でもある。それを端的に表しているのが、Youtubeで公開されているピアノヴァージョンの「Papercut」だろう。シンセポップ的なサウンドは彼女の表現において重要な要素にちがいないが、音楽の核となっているのは、可憐でありながら、どこか諦観めいた響きも備えた、彼女の歌声なのだ。
さらに、OOHYOの最新作を聴き進めるうちに感じられたのは、彼女の表現に対するバランス感覚だった(もしかしたら邪推なのかもしれないが)。それは、自身を表現することと、音楽を生み出そうとする姿勢との間の距離感とでもいえるだろうか。その距離とは、音楽におけるクールネスと繋がっているようにも思う。音楽に自らをダイレクトに反映させるアーティストは巷間多いが、自我の横溢がかえって音楽を損ねていると感じる時がある。自身の表現欲求と、生み出される音楽は、連関がありつつも、どこか一線を画していてほしい。長年節操なく多様な音楽を愛好してきたリスナーの経験においては、そのようにつくられた音楽のほうが、永く愛聴できるように思えるからだ。
- TEXT :
- 菅原幸裕 編集者