ニコラウス・アーノンクールを偲んで、そして新鮮な『運命』

これらの楽器の存在は、近現代におけるクラシック音楽のありようを変えてきた。例えばヨハン・ゼバスティアン・バッハが音楽を創った18世紀半ばには、先に挙げたモダン楽器のフルートはまだ存在せず、フルートといえば木製のリコーダー(縦笛)か、それを横型にしたフラウト・トラヴェルソを指していた。また、複雑な機構が盛り込まれた金管楽器もなく、ヴァイオリンにはガット弦が用いられ、反りが少ない弓で弾かれていた。鍵盤楽器も大きく異なり、現代のようなピアノ(モダンピアノ、またはピアノフォルテ)はなく、チェンバロのような撥弦楽器、またはクリストフォリによって生み出された初期のピアノ(フォルテピアノ)が使われていた。

楽器は、より大きな音や、演奏のしやすさを実現するために、間断なく進化してきたといえる。だが、バッハなどの18世紀以前の音楽、またはモーツァルトやベートーヴェンといった古典派の音楽などを、最新のモダン楽器で演奏した場合、そのサウンドは果たして作曲家が意図していた表現といえるのか。作曲家が生み出そうとしていた音楽の実像に迫ろうとするならば、楽器も、演奏法も、当時のものを考慮しなくてはいけないのではないか。アコースティック楽器の進化がある程度緩やかになる一方で、そうした機運が高まってきた。特に、バロック以前の音楽(=古楽)へのアプローチにおいて、往時の楽器やそのレプリカを使い、さまざまな研究を重ね演奏に取り組む音楽家が、1950年代から続々と出現した。グスタフ・レオンハルト、フランス・ブリュッヘンそしてニコラウス・アーノンクール。彼らは「古楽ムーブメント」の先駆けであり、その後の古楽の世界的拡がり、さらはクラシック音楽におけるピリオド楽器と演奏法の拡がりに、重要な役割を果たし続けた。

そんな彼らも、2012年にはレオンハルト、2014年にはブリュッヘン、そして今年の3月、アーノンクールがこの世を去った。アーノンクールは、自身が結成したピリオド楽器の楽団「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」で、ベートーヴェンのチクルス(交響曲全曲演奏会)に取り組んでいた矢先、突如引退を発表、その3ヶ月後に帰らぬ人となった。訃報の直前にリリースされたのが、彼の最後の交響曲の録音となった『ベートーヴェン:交響曲第4番、第5番』(ソニー・クラシカル)だった。

 
 

ベートーヴェンの交響曲第5番といえば、いわずもがなの『運命』である。多くの人の脳裏に、その旋律と響きは記憶されているだろう。だからこそ、アーノンクールの生み出す音楽がどれほど一線を画すものかを、感じることができるのではないか。
アーノンクールはCDに付属するライナーノーツにて、次のように語っている。

「最初から、私は楽譜に一切の手を加えることなく、全ての交響曲を演奏すると決心していた。私がまだ一兵卒の音楽家だった17年間(註:1952年〜69年のウィーン交響楽団チェロ奏者時代を指す)で、楽譜に変更の手を加えることなしにベートーヴェンの作品を演奏したことは、ただの一度もなかった。それは、ヘルベルト・フォン・カラヤン然り、エーリッヒ・クライバーやカール・シューリヒト、他のどの巨匠の下でも、また然りだった。いや、簡単に言えば、変更なしの演奏なんて、それまで一度も行われたことはなかったのだ。こうした変更はメンデルスゾーンやワーグナーが始めたもので、マーラーによって継承された。今日なお、ベートーヴェンの楽譜への修正や加筆は必須である、と考えている指揮者が多くいる」(日本発売盤ライナーノーツより、訳・寺西肇、註も)

先述した私たちの記憶にある『運命』のサウンドは、さまざまに変更が加えられたベートーヴェンである可能性が高い。アーノンクール自身もまた、かつては音楽家としてその「現代風に改良されたベートーヴェン」を演奏する側にいた。彼はそんな姿勢に疑問を感じ、オリジナルな演奏と音楽の追求へと自身の音楽家人生の舵を切ったのだった。それから50年超、彼の活動が演奏者から指揮者へと移り、古楽やバロック音楽に限らず古典派やロマン派、さらにはベルクやガーシュインなどに至るまで幅広く取り組むようになっても、その姿勢は一貫してオリジナルな価値の追求だった。

ではその音の実際はどうか。クラシック愛好家からの批判を覚悟の上で言うなら、大仰で古色溢れるはずの『運命』は実に「フレッシュな」サウンドだった。クラシックだけでなくジャズやロック、ポップスまで節操なく聴く耳に、リズミカルな打楽器や金管の音が、単に馴染み良かっただけかもしれないが(アーノンクールは一部のクラシックファンから「けたたましい」「騒がしい」という批判を受けがちでもある)。ただ、よく知られた冒頭の4音の「リフ」はむしろ抑えめに、やや陰気に響きながらも、そこから第2楽章〜第4楽章へと進行する過程で、ポジティブなパワーが横溢してくるさまは、なかなか得難い音楽的経験だった。確かにホーンは時に過剰に、ややもすると野蛮に響くが、それはむしろ「解放的」に感じられた。バロック音楽においては金管は権威や神性を象徴するとされるが、この音楽における金管は、個性の発露として、いわば自由を謳っているように感じられたのだ。それはまたこの交響曲第5番がフランス革命に影響されているという説を連想させる。従来の社会システムがボトムアップで変化する状況、その中で生起する新しい価値観、もしかしたらこの交響曲はそうした時代の気分を捉えようとしているのではないか、邪推を承知で、そんな風にも感じてしまった。そして、こんな考えを巡らす経験をもたらしたアーノンクールは、類稀なる指揮者であり、音楽家なのだと実感したのだった。

一方で、カップリングされている交響曲第4番の響きや緩急の多彩さには、大編成のオーケストラがひとつのベクトルに収斂していくようなベートーヴェンの演奏とは別種の美意識が感じられ、これこそピリオド演奏の魅力、さらにはアーノンクールのアーティキュレーションの魅力なのかと再認識されられた。そして同時に、このチクルスの録音が、彼の死によってここで中断したことが、きわめて残念に思えた。この時点のアーノンクールだったら『田園』をどう表現するのか、そしてあの第9の合唱をどう捉えるのか、さらにはそれらおなじみの交響曲を通して聴いたときに、訪れる感興とはどんなものか......そんなことに想いを巡らしながら、今日も手元の4番と5番の録音を、繰り返し聴いている。

ちなみに、この「4番&5番」の後に、ベートーヴェン晩年の大作『ミサ・ソレムニス』(ソニー・クラシカル)の録音がリリースされている。こちらは未聴だが、また新鮮な経験をもたらしてくれるのに違いないと、今から楽しみにしている。

この記事の執筆者
『エスクァイア日本版』に約15年在籍し、現在は『男の靴雑誌LAST』編集の傍ら、『MEN'S Precious』他で編集者として活動。『エスクァイア日本版』では音楽担当を長年務め、現在もポップスからクラシック音楽まで幅広く渉猟する日々を送っている。