骨から発する光にも似た、おぼろげで神秘的な音楽
この「音響派」という言葉は、もともと1990年代後半〜2000年代のトータスやザ・シー・アンド・ケイクといったシカゴ出身のグループに参加していたジョン・マッケンタイア、またはジム・オルーク周辺から出てきたものだった(と記憶している)。前出の2グループの他にも、マッケンタイアはステレオラブのプロデュースも行っていて、そのエレクトロニックなエフェクトが盛り込まれたサウンドは、それよりすこし前に音楽シーンを席巻した「ロウファイ」にとって替わる形で、一躍時のサウンドになった。もっとも今日では、それらは「ポストロック」「インディロック」のひとつとして片付けられてしまっているが。
フアナ・モリーナがマッケンタイアやオルークらの音楽の影響を受けていたかどうかともかく、音楽のつくり方においては双方とも時代を反映していたといえるだろう。つまり音楽制作におけるPC(コンピュータ)とソフトの役割の飛躍的な増大である。ProToolsに代表されるオーディオソフトウェアは、いわゆるレコーディングやポストプロダクションのプロセスを大きく変え、より個人の領域でサウンドをつくりあげることを可能にした。やや大雑把に言えば「宅録(自宅録音)」の拡張である。また音感的な領域においても、クリックノイズなどの電子雑音、オートチューン、または生活音のサンプリングなど、エレクトロニックなエフェクトが多く音楽に取り入れられるようになった。モリーナはシンガーソングライター(SSW)だが、エレクトロニカのアーティストとも記したのは、こうしたPCを駆使した結果生み出されるサウンドの個性も加味した表現である。
モリーナの音楽は、奇妙であると同時に、どこか「おかしさ」がある。ユーモア感といえるかもしれない。今日のようなミュージシャン活動を行う前は、本国アルゼンチンでコメディエンヌとしてTV等で活動していたと聞くが、現代の女性SSWにありがちな自己愛に裏打ちされた切実な表現というよりは、自分を客体化してわざとコミカルに振る舞うような、どこか冷めた姿勢が感じられる。そのへんは「あまり自分を露出しない」アルバムのアートワークからも感じられる。だからといって女性らしさが希薄なわけではなく、むしろ彼女の音楽においては女声が際立っている。率直に言ってそれは実にチャーミングだ。その存在感は、通算7作目の新作『ヘイロー(Halo)』でも変わらない。
サンプラーを駆使したエレクトロニカというサウンドの基調は、新作でも変わらない。また、近年の数作でもいくらか感じられていたが、グルーヴ感というか、リズムの巧みさが本作ではより際立っている。さらに言えば、彼女の歌(と歌声)が本来持つグルーヴ感がより増幅しているようにも感じられる。南米らしいパーカッシヴな曲もあり、どちらかというとクールで、フォーキーな印象すらあった彼女の音楽に、躍動感が加わっている。このへんは数年前の「親指ピアノによる人力テクノ&トランスミュージック」であるコンゴトロニクスとの共演などが影響しているのかもしれない。
アルバムを通して聴くと、実にコントロールされたポップセンスが感じられる一方で、彼女の不変のスタンスが強く印象に残る。彼女が生み出す音楽はエレクトロニカの範疇に入るが、そこにはPCやソフトに「引っ張られて」生まれた印象はなく、ギターやベースを弾くように、サンプラーなどを「演奏して」到達した音楽のように感じられる。さらにその歌はリズミカル&ハーモニックで、スペイン語を解さないリスナーにとってもすんなり入っていけるサウンドになっている。
タイトルの「Halo(ヘイロー)」とは「灯火の周りのぼんやりとした光、または後光のこと」という。本作のプレスリリースにある石田昌隆氏の解説には、モリーナが「夜に野原を漂う、緑色の邪悪な菱形の光」の伝説を見つけ、そこから曲名〈Lentisimo halo〉やアルバムタイトル、ジャケットのアートワークが導かれたとある。菱形の光は実は腐った骨から発せられる蛍光性の光(つまり燐光ということか)だった。ゆえに骨を配したジャケット、こちらを見る目はモリーナのものだろう。ぼんやりとした光はモリーナの音楽であり、その基底には、モリーナ自身の存在またはまなざしがあるということか。自身を肉や血でなく「骨」で表象するあたりに、この人ならではの含羞(がんしゅう)にも似た距離感を感じてしまう。
- TEXT :
- 菅原幸裕 編集者