合理性からはみ出す生の実感を味わう漫画『むかしこっぷり』
「私のよく知るあなたは 私の知らないたくさんの時間によってあなたになった そんな当たり前のことを今強く強く思い知らされるのです どうか小さなその一片を 私にわけてくださいませんか 失われてしまうその前に」
こんな言葉から始まる『むかしこっぷり』は、ひとりひとりの心の奥にしまわれた物語を聞いて、それを漫画に描き起こしたものだ。
浜辺で遊んでいると十円玉を何度も手渡してくれる謎のお兄さんの話、五匹の仔犬が食べられてしまった話、カッパに道を教えられた話、前世の息子の話、空飛ぶ光球の話、赤ん坊のころの記憶の話など、不思議な物語ばかりである。
「さてサチ子は困った
そのまま持って帰れば
知らない人から
ものをもらったと
母親にきつく叱られる
かといって
自分のものにする訳にも
いかない
悩んだ末サチ子は
バケツの奥底に一旦
十円玉を沈めた」
見知らぬ人が何度もお金をくれるって、どういう状況なんだろう。単なる昔話とは違った生々しさがある。お菓子とかならまだわかるけど十円玉とは妙だ。おまけに渡されるほうはまだ小さな子どもなのだ。混乱して当然だと思う。
カッパの話もまた不思議で、池に浮かんだ林檎の上に座っているのだ。カッパといえば普通は胡瓜じゃないのか。でも、そのズレにこそ、本当に見たんだろうな、というリアリティが宿っている。
現代の私たちは科学や合理性や資本主義や法律といった網の目に何重にも縛られて暮らしている。だが、われわれの心を形づくる記憶や実感はそこからはみ出すものだろう。本書は、理屈では説明のつかない生の実感をていねいに掬い取っている。
※本記事は2019年8月7日時点での情報です。
- TEXT :
- 穂村 弘さん 歌人
- BY :
- 『Precious9月号』小学館、2019年
- PHOTO :
- よねくらりょう
- EDIT :
- 本庄真穂