「万巻の書を読み、万里の路を行け」とは、中国は明末期の文人、董其昌の言葉だった。日本においてもこの言葉は、富岡鉄斎らの心をとらえ、様々に形を変えながらも、文士たる者のプリンシプルであり続けてきた。

’90年代のいつか、あるパーティの席でご一緒した種村季弘さんに、「きみね、40歳過ぎたらうろうろしないで、机の前にじっと座ってお書きなさい」と忠告されたことがある。種村さんは、澁澤龍彥と並ぶ稀代の愛書狂、神秘主義研究家、ドイツ文学者であり、死後もその著書は妖しい力をもって読み継がれている。

若いうちは、さんざんっぱら獲物を求めて、野良犬のようにうろつくのも必要だが、「ここ」にいて動かず、しかし宇宙の「かなた」に遊べるようになんなさいよ。

やっぱり出会いは師であるということだ。なんと、ありがたい教えであることか。

しかし澁澤、種村もとっくに他界し、我がコトバの先生であった詩人・田村隆一も、新世紀を待たずして羽化昇天した。先生はスコッチを飲みながら「きみたちはこれからくる“すばらしい新世界”(ハックスリーによるディストピア)を生きなきゃならないとは、お気の毒だな」とシニカルに笑ったものである。

旅人の机上│歩きながら考えるために

机の逆側の壁面には、魚の剝製や刻みタバコの缶のフタ、そして旅の写真などが往時のままディスプレイされている。右は作家愛用のパイプ。
机の逆側の壁面には、魚の剝製や刻みタバコの缶のフタ、そして旅の写真などが往時のままディスプレイされている。右は作家愛用のパイプ。

コンピュータとインターネットは、過去のどんな革命もできなかった解体を、次々にやってのけている。書斎などいらない。本など読まない。長文は重いから、書かない。真実も噓もありゃしない。利便の代償に、人間は大切なものをあっさりと手放した。人々は、定住、定職を解かれ、ノマドへと向かう。ノマドは「自由という呪い」がかけられた者である。

’80年代に5年にわたり『小説新潮』で連載された篠山紀信の写真集『作家の部屋』に活写された、井伏鱒二や立原正秋の着物姿から、司馬遼太郎や水上勉の散らかった仕事部屋の佇まいは、今まさに解体の宿命にさらされた、文士の「残照」というべきものだ。

この写真集は確かにすばらしい。しかし、もはや古今の古美術を踏破し、自ら雑誌『座右宝』を出版してしまった志賀直哉の生活美も、自分が床の間に掛けている軸が偽物かもしれないという疑念を断ち切るために、自ら刀で軸を庭に切り捨てた、小林秀雄の真贋への壮絶さも記録されていない。川端康成は古美術商に行き、気に入った中国の机があると、「これをウチに届けておいてくれ」と言い、その机の上で小説を書き上げたのだという。後日、古美術商が「先生、お代がまだですが」と催促すると、「引き取っていただけますか」と金を払わず返品したという逸話が伝わっている。しかし、小説は生成されたのである。むろん川端に反省や世間一般のモラルなどあるわけがない。

文で身を立てる者たちの、凄絶と栄華は、確かに喪失してしまい、取り返すことはできない。

ならばさて、文士の矜持であった「文房四宝」や「琴棋書画」の世界はもはや、博物館行きの過去の遺物なのだろうか?

先日、台北に行った折に、好きで必ず行く茶藝館「紫藤廬」でぼんやりと過ごした。ネットやミーティングを求めてカフェに行く者は、ここには誰一人こない。オフラインのアジール(避難地)。築100年近い洋館の部屋のあちこちには、器や書などが飾られているが、いにしえの中国の心は、皮肉なことに、大陸ではなく台北の故宮博物館に残されていると同様、この紫藤廬にもある。現代を生きるノマドの書斎の作法 ぼこぼことお湯の沸くポットと、烏龍茶を飲むための小さな茶器が卓上を占めている。古く使いこなされた調度。決してゴージャスでも特別にかまえた場所でもなく、しかし、なんと気持ちが良くなるのか。

一人の旅人が、その傍らにノートを広げ、どこかの海岸で拾ったであろう石と流木をだして、考え事にふけっていた。ノマドの書斎だ。

皆ここにきて、固有の時空間を取り戻しているように見える。

オンラインが加速的に生活の利便を変えても、かえって「考える」ということが問われ、求められるようになるのである。考えるための時空間をいかに自ら獲得しうるか。もしあなたが、人生をクリエイティブに過ごしたければ、そのことに気づかなくてはならない。

見知らぬ旅人の、石と流木が置かれた机上を興味深く思ったのは、それが僕の旅の書斎の作法とおんなじであり、また、多くのノマディストとして敬愛する人たちとも同様であったからだ。「歩きながら考える」とはジャコメッティの親友だった美学者・矢内原伊作の本のタイトルだが、これほどまでに見事にノマディズムの本質を言い当てたコトバもないだろう。

戦争で死にぞこなって、5回の結婚を繰り返し、ついに鎌倉二階堂に辿り着いた田村隆一のテーブルの上にあったのは、原稿用紙と小さな辞書だけだった。ありあわせの万年筆から、あの詩精、ダンディズムが生まれたパラドックス。僕はそれを見た。

坂本龍一のホテルの部屋も、拾ってきた石や枝が本やお香とともに置かれて、魅力的なカオスをつくっているのを、僕は見た。

尊敬するノマディストのブルース・チャトウィンは、考えたことの全てを、移動しながら〝モレスキン〞のノートに綴った。そこにも、教えがある。また、レイ&チャールズ・イームズの2人が、世界を旅して拾ってきた石ころや貝でテーブルの上を覆いつくし、ラブリーな空間にしていたことにも。

古臭い、大人の美学としての、文人趣味が亡ぼうが、ノマドの時代の、また新たなエシカルな空間、考えるための作法が生まれてくるのだ。紫藤廬で、プーアール茶を飲みながら、そんなことばかり、考えていた。

作家の生きざまを今に伝える机上|開高健記念館

1974年から没するまで開高健が住んだ神奈川・茅ヶ崎の自宅に開設された開高健記念館。建物外観と開高健自身が名付けた「哲学者の小径」を持つ庭、そして書斎は往時のままに保存されている。掘りごたつスタイルの座卓、座椅子の背もたれにはハンターから譲り受けたという毛皮がかけられている。執筆の邪魔になるからと、机上に並んだベトナム戦争関連の書籍と辞書以外は、書棚に納められ布で隠されていたという。机上に置かれた特製のメモパッドには「メメント・モリ(死を思え)」と印刷されていた。必要十分で、それでいて作家の個性が色濃く反映した場所といえる。 
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1974年から没するまで開高健が住んだ神奈川・茅ヶ崎の自宅に開設された開高健記念館。建物外観と開高健自身が名付けた「哲学者の小径」を持つ庭、そして書斎は往時のままに保存されている。掘りごたつスタイルの座卓、座椅子の背もたれにはハンターから譲り受けたという毛皮がかけられている。執筆の邪魔になるからと、机上に並んだベトナム戦争関連の書籍と辞書以外は、書棚に納められ布で隠されていたという。机上に置かれた特製のメモパッドには「メメント・モリ(死を思え)」と印刷されていた。必要十分で、それでいて作家の個性が色濃く反映した場所といえる。
文・後藤繁雄さん
ごとう しげお
編集者、クリエイティブディレクター、アートプロデューサー、京都造形芸術大学教授。写真集、アートブックを数多く制作。全国の美術館にて自身がプロデュースした「蜷川実花 写真展」がある。

開高健記念館

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MEN'S Precious編集部 
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MEN'S Precious2018年春号より
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クレジット :
撮影/篠原宏明(取材)文/菅原幸裕