学者のイメージを華麗に覆すダンディな数学者
デカルト、フェルマーをはじめ、フランスは伝統的に優れた数学者を輩出してきた。40歳以下の若く優れた数学者に授与されるフィールズ賞を見ても、フランスは12個を獲得し、世界第一位のアメリカの13個と、わずか1個差の第2位。両国の人口差を考慮すれば、もはや1位の実力といってもいい。ちなみに日本は3個に留まっている。
当代のフランス数学界のトップであり、独特のスタイルで異彩を放っているのが、セドリック・ヴィラーニ氏。1973年、フランス南西部ブリーヴ・ラ・ガイヤルドに生まれ、ボルツマン方程式とランダウ減衰に関する研究で、2010年にフィールズ賞を受賞した天才数学者だ。'09年からアンリ・ポワンカレ学院のディレクターをも務める。
数学者というと研究室に籠って数式を問いているように思われるが、彼はある日はカナダ、翌日はカメルーンと世界各国を旅して学会に出席、各国で講演を行う。数学の物語、数学のアーティスティックな仕事を語る彼の講演は大人気で、常に満席でチケットが取れない。
あまりにも要望が多いので、今後、講演のDVDを発売する計画もある。著作も、定理を生み出すまでの自らの紆余曲折を描いてフランスで大ベストセラーになり、日本語訳も出版されている自伝的ノンフィクション『定理が生まれる:天才数学者の思索と生活』ほか、作曲家との共著で創作活動の裏側に迫った本や、歴史を変えた4人の数学者や物理学者を取り上げた、漫画家とのコラボレート本を出版するなど、数学に留まらない活動で注目を集めている。
ポワンカレ学院にある彼の研究室は、おびただしい研究書、様々なジャンルの書籍が無秩序に置かれた混沌とした空間だ。壁際の棚には、彼の功績を称える無数のメダル。最も重要なのは、もちろんフィールズ賞のメダルだ。研究室内には、一見ドーナツだが分解するとメビウスの輪になる置物、いろいろな蜘蛛のオブジェなど、いたるところに世界中の不思議なオブジェが置かれている。
なかには、熱烈なファンから郵便で届いたというヴィラーニ氏の肖像画や、蜘蛛のモチーフがついた手編みのマフラーもある。
世界を頻繁に旅している彼は、ハローキティとコラボした飛行機に乗ったといって、キティとともに撮ったセルフィを見せてくれた。この気さくさも人気の一端だろう。
ヴィラーニ氏は幼少時代から読書や熟考することが好きで、特に数学で頭角を現した。しかし「自分で数学を選んだと思ったことは一度もありません」という。むしろ数学の神が彼を選んだのかもしれない。
「数学とはアートであり、問題を解決する科学であり、同時に社会的活動です」
彼が数学を口にするとき、それは難しい数式ではなくて、まるで詩のような語り口。学者というよりアーティストの感性を漂わせる。
ヴィラーニ氏のルックスもまた、一般的な数学者のイメージとは異なる。長髪、髭、スリーピースのスーツに、ボウタイ、そしてクモのブローチがトレードマーク。一般に持たれがちな、「研究者は身なりに頓着しない」という偏見を大きく覆すスタイルだ。ダンディを定義した文学者シャルル・ボードレールがまとったような19世紀のクラシシズムと同時に、現代的なムードをも感じさせている。
がっちりした英国のスリーピースが好きで、お気に入りはハケットのもの。特にベストは、ボディへのフィット感に強いこだわりを持っている。そんな重厚なスーツに、アクセサリーで華麗さを演出するのが彼の流儀。だれもが目を奪われるアスコットタイのコレクションは、幅広く長めのものを蝶結びに、短めのものを軽くスクエアタイ風に結ぶのが定番の結び方。古風な懐中時計は友人からプレゼントされたものだが、彼のスタイルによく似合っている。蜘蛛のブローチもまた大量に所有しているそうで、本日はパール付き。
なぜ蜘蛛なのですか?という問いには、「秘密。でも素晴しい益虫ですよ」と言って明らかにしてくれなかった。しかし蜘蛛のブローチは彼のクラシックな装いに、パンクロックあるいは、ゴシックファッションのようなツイストをかける、重要なアクセサリーとなっている。
「いつもスーツです。大統領と会うときも、田舎に遊びに行くときも」
そんな彼のスタイルは、自分のアイデンティティを表現する装いが必要だと感じた学生時代、名門エコール・ノルマル・シューペリユール(高等師範学校)在学中の21歳くらいのときに考案して以来のもの。
「そのイメージはいろいろなものから着想しました」という彼。
実際、彼は数学だけにしか興味がない人間ではなく、広く映画や音楽などのカルチャーにも通じている。学生時代からずっとシネフィルであり、'60年代のヌーヴェル・ヴァーグ、オーソン・ウェルズ、ウォン・カーウァイから、黒澤明、溝口健二など日本映画にも精通している。
「漫画なら『ブラック・ジャック』、『リボンの騎士』、『デスノート』、アニメなら宮崎駿や高畑勲、今敏が好き」と、日本の漫画やアニメにも詳しいのは驚きだ。音楽にも造詣が深く、研究室の壁には'70年代の歌手カトリーヌ・リベイロの大きなモノクロ写真を飾り「好きというよりフェティッシュ」というくらい心酔している。こうしたカルチャーからの影響で、彼ならではの古典的かつ斬新なダンディスタイルは形成されていったのだ。
彼の装いとは、すなわち彼のアイデンティティそのもの。強烈な個性で人を惹き付けるのは、その内面にある宇宙の魅力ゆえなのだ。
- TEXT :
- 安田薫子 ライター&エディター
- BY :
- MEN'S Precious2016年夏号「この力強さを見よ!新しきパリのダンディズム」より
公式サイト:Tokyo Now
- クレジット :
- 撮影/小野祐次、宮本敏明 構成・文/安田薫子 構成/山下英介(本誌)